「流石にひどいわよ!今すぐやめさせて」

会長室。エリナの声には本物の痛ましさが込められている。

「ルリちゃんにあそこまでする必要無いじゃない!あんな事をしたら「構わないよ」」

アカツキは相手にしなかった。2人の間に挟まれたプロスペクターは困ったように頭を掻いている。

「貴方ねえ!!」

「プロス君の判断した人物だ、あれが一番相応しいに違いないだろう。

それにルリ君自体が望んだ事態だ。実際に復讐なんかに取り掛かったらもっと辛いだろうし」

「それでも、ルリちゃんは脅されて」

「ともかく続行。僕はプロス君の人を見る目を信じてるからね。よろしく頼んだよ」

「はい。頼まれましょう」

プロスペクターの軽い一礼。一人エリナだけは悪い胸騒ぎを起こしていて、その後一日中無言だった。



























Bride of darkness



第6話 『日常からの旅立ち』











早くも外は梅雨の時期。今日もしとしとと天よりの雫。

ルリは今、1ヶ月ぶりに地上に出ていた。ほんのたまの、気分転換である。

「お待たせしました。コーヒーと苺のショートケーキでございます」

ウエイトレスの一礼。彼女の目の前にまずショートケーキが置かれ、次にソーサー、カップと続く。

再び一礼してウエイトレスが去った。入れ替わりに別のウエイトレスがやってくる。少し効率の悪い店ではある。

「お待たせしました。コーヒーです」

先程よりは少し甲高い声。ルリには何となく、別に目線を向けずとも、相手が自分と同い歳ぐらいだとわかった。

あるいは新入りだろうか?1ヶ月前にこの店に来た時はいなかった気がする。

黒い髪をポニーテールにしているこのウエイトレスは。制服もまだ少し新品特有のバリバリとした感じが抜けていない。

敢えて研修も兼ねて彼女には先輩の後にコーヒーだけを持たせたのかもしれない。

そんなルリの思考も、ウエイトレスが去る頃には消えてしまった。目の前で運ばれてきたばかりのコーヒーが持ち上げられる。

それはダークスーツを着込んだ男の口元に運ばれて―――どきり。ルリの鼓動が波打つ。







だが、"それ"は杞憂だった。ちゃんと彼が彼女の目の前にいる。テンカワ・アキト、彼女の今やただ一人の家族が。

「ルリちゃんも食べなよ」

「あ、はい」

本当にこの人は変わらないな―――ルリの裡に浮かんだ、ひと時の感想である。

アキトはあまり変わらなかった。復讐の為に身を鍛え上げているというのに。

口をつけたコーヒーの程よい苦味も、彼には感じ取る事が出来ないというのに。

今は怪しい雰囲気を醸し出すバイザーもつけていない。そうだ、日常そうする必要が無くなったからだ―――






























「提案した身が言う事では無いけれど・・・・・・本当にいいの、ルリちゃん?」

この日のルリの服装。白い貫頭衣、髪は1本のポニーテールに結わいでいる。

いつもはあの全身水着のような白い特殊スーツを着込んでいる彼女だが、

久しぶりにそれを脱ぎ捨て、重い鍵の掛かった窓の無いあの空間から出て―――手術室前にいた。

「はい。イネスさんの腕を信じていますから」

金髪の女性―――イネス・フレサンジュの溜息。どうやら、ルリはこうするのを当然の事と思っているらしい。

「あのね、確かにこの手術はまず失敗しないわ。この前のB級ジャンパー化施術がただナノマシンを打って、

その定着を確かめる為に色々と身体を触り調べたのと同じ事をするだけだから。

でも問題はその後なのよ。いい、貴女が強く思った事、特に言語情報はアキト君にも伝わってしまうの。

勿論まだ実証例が無いから何とも言えないけれど、下手をすると貴女達のアイデンティティが崩壊してしまうかも知れない。

それがどれほど恐ろしい事だか、貴女ならわかっているはずでしょう?」

「はい。いいんです、私が少し気をつければいいだけの話ですから。

味覚が戻らないのは残念だけど、でも、アキトさんの視覚と聴覚のサポートが出来るだけでも、本当に嬉しいんです」







アキトの感覚器官そのものは少しも死んでいなかった。神経の伝達も味覚や触覚を除きほぼ完璧である。

だが、火星の後継者達に投与された出所不明、多数のナノマシンの圧迫は脳の方に及んでいた。

これによってせっかく伝達された情報を脳において処理する事が出来ない。

その為、この処理をルリが行う、情報をタイムラグ無しに飛ばす事の出来る『リンク』処理を2人は受ける事になった。

『リンク』は主に脳付近に定着するナノマシンである。特に補助脳と隣接し、IFSとは密接な関係を持つ事になる。

ちなみにルリは元々、アキトは実験によりオペレーター用IFSを持っているので、それぞれデータ処理には問題無い。

勿論、『リンク』は古代火星文明の技術による物であり、実証例は2人がはじめてである。

だから何が起こるかはシミュレーションでは予測できても、それ以上の物は例が無いのでわかるはずも無い。

それでもルリは手術(処置とも言う)を迷い無く受け入れた。アキトの方がルリを自分に拘束してしまうからごねたが、

無理やりルリが眠らせて―――暗殺術による処が大きい―――手術を受けさせる事になった。







「そう。わかったわ、そこまで言うのなら。30分後にはじめるから、準備して」

「はい」

イネスより手渡された睡眠薬の錠剤を、ルリは口の中に放り込んだのだった。






























「それにしても1ヶ月ぶりの外だな」

「そうですね。本当はこんな事していたらいけないのかもしれませんが」

教えられた通り、さり気無い仕草で砂糖やコーヒー、ケーキを調べていくルリ。勿論アキトはそれに気付かない。

勿論この中に毒が混ざっているはずが無いのだが、普段からの実習が大切だと彼女は身にしみてわかっている。

本当に毒が混ざっている状況なら、そもそも砂糖やケーキは頼むものでは無いと、そう教えられてはいるのだ。

ともかくそうしてから、砂糖をコーヒーの中にゆっくりと混ぜる。

次にコーヒーの飲み方も気をつけた。一口目は舌に触れるだけに止める。

これらの事でわかる毒物が使われる事はまず無いはずなのだが、それでも出来る事はしておくものなのだ。

「1ヶ月も別れてるとさ、ルリちゃんが懐かしくて。せっかくの休み、連れ出して悪かったかな」

「いいえ。私もアキトさんに会えて嬉しいです」

距離的にはこの1ヶ月1kmも離れていなかった。だが、ルリは一人隔離されて、暗殺者としての鍛錬を受けていた。

当然彼が恋しくもなろう。もっとも彼女自身はそれを正直に認めたりはしないだろうが。

「それにしてもルリちゃん・・・・・・なんというか、綺麗になったね」

「え、そうですか?」

「ああ。より大人らしくなったというか。もう子供じゃないんだね」





そう、もう私は純粋に子供ではいられない―――ルリの想いだ。

ナデシコに乗っている時、彼女はことあるごとに『子供ではなく少女』という主張を繰り返してはきた。

一人前に働ける自分は子供では無い。だけど、馬鹿ばっかの大人でも無い。他人とは違う。

そう思い込もうとしてきた。けれど―――彼女も馬鹿ばっかの一人。そして、まだ何も知らない子供だった。

家族が欲しくて。アキトに振り向いてもらいたくて。人の情を注がれるのが、口では何か言っても、純粋に嬉しくて。

でも、そんな彼女も少し変わった。決意から。

アキトの為に自分の全てを捧げる。そんな事を本気で思った時から、彼女はもう子供ではいられなくなった。

流されて生き続けてきた、今までは実は楽だった事を散々思い知らされた。

いざ自分の為に、自分が主体となって生きようとすると、何らかの形で苦労が身に降りかかってくる。

今受けている、辛い鍛錬もその一つかもしれない。少なくともそれは彼女の心にいくばくかの影響を与えている。

人を騙し無残に殺す為の鍛錬を受けているのに、彼女の心はほとんど痛まない。

自分が本質的に身勝手で、かつ冷たく暗い心の持ち主である事を否応無しに悟ってしまう。

そして―――そんな自分がアキトに会っている事。アキトに自分の本当の姿を曝け出すのが、怖かった。

いつまでも自分自身を本気で見つめる必要が無い、子供でいられたのなら―――





「・・・・・・私、少女です」

結局ルリにはこの言葉しか残されてなかった。便利だけど、どこまでも素直じゃない言葉しか。

「そうだね」

結局アキトが彼女の真意を理解できる事は無い。リンクも今のところ、アキトの気分がルリに伝わるばかりである。

彼女は完璧に自分の感情を統制できていた。彼女のたまに沸き起こる負の感情が彼に伝わらないように、彼女も必死だ。

「で、どうだった、この一ヶ月?見たところいい先生のようだけど」

アキトは知らなかった。ルリがどんな目にあってきたか。微かに類推できるだろう、初日の記憶は消されている。

そして彼女も知られたくは無かった。1ヶ月前までは勘違いしていたという事もある。





あの初日の後。ルリはまだアキトが"除去する者"に囚われているものと勘違いしていた。

別に男の側からは特に言ってこなかったのだが、一度死ぬような目にあった彼女では勘違いしても仕方が無い。

冷静に考えれば、アキトにはアキトの鍛錬があるのだから、いつまでも拘束されているはずが無いのだが―――

ともかく勘違いしてしまった彼女はあの後もずっと必死だった。

そして、今や彼女の師匠となった男はあれ以来一度も「諦めろ」とは言わなかった。

ただし厳しさはそのままである。日常全てが鍛錬。彼女はひと時も心休まらずに―――1ヶ月が経過した。

1ヵ月後、今からちょうど1ヶ月前。彼女に急に休暇が言い渡された。

半日は疲れからぐったりとしていた彼女だが、アキトも共に休みである事に気付いて、出かけたのだ。

それで1ヶ月前にも、この街中の喫茶店に来ていたのである。





何故1ヶ月に一度だけは必ず休暇をくれるのだろうか?

ルリには実際のところよくは理解できていない。ただ、この休暇で心癒されるのは間違いが無い。

普段からアキトに自分の感情がリンクを通して渡らないように努力している彼女にとっては

別に会ったからといってその場で特別苦労するという事は無い。

純粋に彼に優しくされる事が嬉しい。本質では変わらない彼を感じ取って、心休まる。

いつもは師匠以外に会う人も無く、甘さの欠片も無い日常を送る彼女には尚更だ。

「次、どこに行く?」

「あの公園、行ってみませんか?屋台、出してた」

「・・・・・・過去を振り返るの、俺達はやめたんじゃなかったかな」

「振り返るんじゃありません」

きっぱりとルリ。最後に残されたケーキ一切れを食べて、口を拭う。

「ただ、過去は捨てられない・・・・・・だから、思い出としてとっておくんです。

幸せに暮らしていた時もある。アキトさんが料理人を目指していた時も。

たとえそれを思い出す事で、心が苦しくなっても・・・・・・」

それを振り返るというんじゃないのか―――だがそれをアキトが口にする事は無かった。

ルリがそうしたいと言っている。だから、彼もその希望に添おうとする。







一見今のアキトとルリの関係は互いに与え合っているものには見える。

ルリは生きる理由をアキトに見出した。彼がいるから、ただそれだけで生きている。

アキトは代償として―――復讐の手助けとしての、あるいはまた別の、一般には家族愛と呼ばれるものでもある

―――ほとんど無条件でルリを受け入れている。ルリが何か言えば、アキトは従ってしまう。

彼とてルリが可愛いのだ。彼が少年時代ついぞ得られなかった家族という感覚をくれる、ルリという存在が。

だがそれが真に2人の為にとってよい関係であるのか。その事を、2人はまだ考えようとはしなかった。

































6月中頃。3ヶ月と限られた一連の期間が終わりを告げようとしていた。

「ふん、甘いな」

「!」

だが、ルリは一度もまだ模擬戦で師匠たる"除去する者"に勝利できていなかった。

教え込まれた技能はほぼ十分である。僅か3ヶ月という期間の間で、彼女は教えられたものを全て吸収している。

ナイフから刀を扱う技術。拳銃の射撃。ライフルの狙撃。そして暗器―――糸使いと一般に呼ばれるもの。

正面戦闘に関してだけ言ってもこれだけの技術を既に彼女は頭では全て理解しているはずである。

それだけ彼女はこの3ヶ月ずっと集中してきたし、教えられた内容は濃いものだった。

けれど身体がついてこない。イメージは完成しつつあるのに、身体がその通りには動かないのだ・・・・・・





何かが飛んで来る。それを避ける。左にステップを踏んで、右手にある銃を構える。

脳裏ではこの瞬間に射撃して、5m先の相手を撃ち殺しているはずである。

だが、一瞬遅れる。銃の引き金を絞る、その瞬間に横から通り過ぎたはずの糸が銃に絡みついた。

糸使いの使う糸。勿論これにはちゃんと仕掛けがある。先端が錘になっていて、それが糸を引っ張り、

引っ張られた糸で相手を切り裂いたりする事が出来る。

通常糸(ワイヤー)に使用されるのはモノフィラメントや単分子ワイヤーだが、模擬戦なので今は違う。

拳銃に絡みついたワイヤー。銃口が逸れ、銃弾は虚しく空に吸い込まれる。

そして拳銃がワイヤーに強く引っ張られる。ワイヤーには巻き上げ機がついているのだ。

「くぅ」

「馬鹿弟子とは貴様のような奴の事を言うのだろうな」

拳銃を手放さざるを得ない。向こうは左手に拳銃を持っている。いつまでも同じ場所にいたら撃たれてしまう。

壁の影に隠れながら、次の手を一瞬で考える。こちらはワイヤーカッター2本、ナイフ。向こうはそれに拳銃。

タイミングを測って影より躍り出ると、同時に両手からワイヤーカッターを射出する。

だが、微妙にタイミングがずれた。右手のワイヤーカッターの錘の方が左手より早く向こうに到達してしまった。

ナイフの柄で錘を叩き落す"除去する者"。そのまま突っ込んでくる。ワイヤーカッターの根元を捨てて、こちらも―――





木製の模擬戦闘ナイフが交わる。相手の斬り付けを薙ぎ払い、突き込みを巻き込んで返す。

時折蹴りを入れて。体当たりも使って。だが、単純な体格差がルリを追い込んでゆく。

どうしても圧力に負けて下がらざるを得ない彼女。そして、永遠に下がり続ける訳には、いかない。

見た目は昔とほとんど変わらないが、鍛え上げた脚力で飛び出して、短い一閃で相手に止めを刺す―――

「ふ・・・・・・」

直後、彼女の鳩尾に強烈な一撃が見舞われた。体重の乗ったそれは彼女の身体を軽く突き飛ばし、

宙を舞った身体は後ろのコンクリートの壁に叩き付けられた。ずりおちる彼女、意識が跳ぶ・・・・・・。






























「私・・・・・・このままじゃ、アキトさんの役に立てない」

寝室。といってもここは相当に殺風景で、窓も無ければ調度品も一切置いていない。

それどころかベッドも無ければ布団も無く、ただむき出しのコンクリートである。ただ一つ、清潔な部屋ではあるが。

『どこでも眠る事が出来るように』の配慮らしい。確かに昔、戦国時代の兵士は野原で眠る事が出来たのだが―――

彼女ももう慣れてしまっていた。それどころか立ちながら眠る事も出来る。そういった訓練をしてきたからだ。

「役に立たなかったら捨てられちゃう?そんなの嫌・・・・・・ずっと、ずっと側に居たいのに」

昼間の実戦訓練や模擬戦を思い出す。知識ではもうあの男に引けをとらないのに、身体が言う事を聞かない。

疲れているからかもしれない。だけど、言い訳は出来ない。どんなに疲れていても、実力が発揮できなければ無意味だ。

彼女は不安になっていた。もう3ヶ月も終わり、期限まで数日を残すばかり。この3ヶ月で、一体何を得たのだろう?

「側にいられないなら、死んだ方がまし・・・・・・。でも、死んだらきっとアキトさんが悲しむ・・・・・・」

ぶつぶつと呟き続ける彼女。今日はどうしても眠れそうに無かった。

現状の自分にどうしても満足がいかない。不甲斐無い自分に。いつもいつも、負け続けてばかりの自分に。

「自分からアキトさんを引き止めておいて、このざま・・・・・・。口先だけの、嫌な女」

アキトに捨てられないように。彼にナイフまで握らせて、自分を道具にするように半ば強要しておいて。

それでいて、道具に少しもなりきれない自分。彼女は自分にかなり失望していた。







それはただ、彼女の心中の話。誰がどう人を必要とするのか。それを、まだ彼女は知らなかっただけ・・・・・・

そして自分が本当はどうあるべきなのか、彼女は考えようとしなかっただけ。

その事に気付くには、まだ彼女は経験をあまりに積んでいなかったのだ。






























宇宙港。その片隅に、彼はいた。

アタッシュケースを片手に。黒を基調とした、紳士服を着込み。

一見普通のサラリーマンにも見える格好。確かに彼はやとわれの身ではある。

ただ、彼の仕事は書類を片手に人類世界を巡る、そういう訳では無かった―――





突如沸き起こる悲鳴。宇宙港の建物全体が振動している。爆発が連鎖して発生したのだ。

「我々は、断固地球の悪辣さに反対する!!」

「火星独立同盟、万歳ッ!」

「地球経済主義者の手先共に死を!!」

通路に響く銃声。そうだ、これを待っていたのだ。

アタッシュケースを開く。中に入っている多数の部品、それを手早く組み立てた。

そして出来たのは―――自動小銃。彼の、商売道具だ。





迷わず施設内を突き進む。彼の前に立ちはだかった何名かの警備員を殲滅。

こうして目的の扉。VIP用第8待合室。タッチパネルを破壊し、扉を開く。

「なっ!」

「あなたっ!!」

ターゲット、確認。長い黒髪の女性が、隣の研究者とは思えないがっしりとした男性の腕にしがみつく。

一発。引き金を絞る。まずは男の前に立ちはだかった女のターゲットの胸を、撃ち抜く。

「うっ!」

「なんと・・・・・・お前、何者だ!!俺の、俺の妻を・・・・・・」

彼の手つきは流れるよう。銃口が男の胸、心臓を指し示す。

「安心しろ、貴様も妻と同伴だ」

マズルフラッシュ。吐き出された数発のホローポイント弾が男の胸板に突き刺さる。

糸を喪った操り人形のように倒れ臥す男。白衣が紅く染まっている。もう―――助からない。





・・・・・・彼は振り向きもせずに立ち去った。






























呼び出し。予定最終日の早朝。

床より起きたルリの目の前に落ちていた一枚のメモ。

目をこすりながら、彼女はそれに目を通した。そうしてから、徐に柔軟体操をはじめる。

朝の体操は、彼女の日課みたいなものだった。







朝食を口にして。いつもと違うのは、彼女の師匠がその場にいない事だ。

ただ、彼女自身は別にその事を気にした風も無く。あっさり目の食事を残さず食べた。

その後はいつも通りフライウインドウを呼び出して、今日のニュースについて目を通す。

別にめぼしいものは無い。いつも通り世界は平穏。

裏では不幸の生じているこの世界も、戦争の時代に比べればずっとましとも言えるかも知れない。

もっともその戦争の芽が生えてきている事を知る彼女にとっては、平穏の裏を見つめなければならないのだが。

平穏の裏、すなわち統合軍と反ネルガル企業群の動き。

後一年ほどで何かありそうだと思わせるほど、活発に動いている。何かが、はじまろうとしているのだ。

はじまろうとしている事を知る彼女はどうすればいい?ともかく、ただアキトについて戦えばいいのか?

(・・・・・・役立たずの私。もし戦うのに辛うじて能があるなら、そうする他無い)

彼女自身の結論は全てアキトというフィルターを通してのものに過ぎない。

彼がこうするから、彼女もそれを手伝う。主体性がかなり欠けていると言わざるを得なかった。







テーブルに手をつけて立ち上がる彼女。そろそろ指定の時間だった。

自分の部屋で黒いスーツを着込むと、訓練場の武器庫から"本物の"拳銃と刃渡り40cmの戦闘ナイフ2本、

モノフィラメント・ワイヤーカッター2基を取り出して腰のホルスターに収める。

ワイヤーカッターと言ってもワイヤー切断用のカッターでは無い。ワイヤーで切断するカッターの事だ。

そうしてから軽く準備運動。身体を適度に暖めて、息が軽くあがってきたところでやめる。

指定された場所へ。まだ彼女はそこで何が待っているのか、よくはわかっていなかった・・・・・・













広いドーム状の空間。市街地戦の演習用に多数の建物と模型の車が置いてある。

その中央、広場のような場所にホシノ・ルリはいた。壁に背中をつけて。防弾用黒コートを右手で抑えながら。

もう既に指定の時間から一時間半。だが彼女は辛抱強かった。ずっと同じ姿勢のままである。

無音の世界。何一つ、風の音さえせずに。直径500mほどのドームはしんとしていた。

何かがおかしかった。そう、いつもとは違う。今朝はいつもと違う事ばかりだった。

一人。置き手紙。黒コート。そして、実戦装備。今まで無かった事である。

もしかしたら、鍛錬では無いのかもしれない。その可能性に既に気付きはじめている彼女。

そっとコートを開く。内側に吊り下げられた拳銃。それに手をかける―――







均衡が崩れた。風の音。彼女は壁から背中を離し、向こう側の建物に跳んだ。

数瞬後、大爆発。今まで背中をつけていた建物が粉々に砕け散る。爆風が彼女をなぶる。

地面を何回転かしてから、立ち上がる彼女。コートが彼女の身を無事に保っていた。

「・・・・・・そう言う事ですか」

彼女の呟き。それに答えるように、ドームに仕掛けられた多数のスピーカーから声が流れ出る。

「そう言う事だ。貴様は俺の弟子には不適格だった・・・・・・俺の手で死んでもらおう」

声に隠されて接近してくるマイクロミサイル。気配を感じて、彼女は建物の影に飛び込む。

またしても大爆発。ミサイルの発射元を手早く脳裏で計算する彼女。

「寝ている時に殺せばこんな大掛かりな事をする必要も無かったのに。馬鹿ですね」

「貴様なんぞ寝込みを襲わなくても軽く殺せる。実力過信の嬢ちゃんなんだ、貴様は」

建物の影を縫って。彼女は別の路に出る。その瞬間、路上で銃弾が跳ねた。

スナイパーライフル。相手は200m以上離れた所から、彼女を狙っている。

勿論こちらの拳銃などといった軽すぎる火器では、相手を狙う事すら出来ない。一方的だ。







だからと言って、相手を卑怯だとか、そんな事を言うつもりにはなれない。

むしろ彼女は自嘲していた。この可能性にすら気付かずに、このドームに足を踏み入れた、自分に。

(貴方の言うとおり、私は不適格・・・・・・アキトさんの手伝いどころか、足手纏いにしかならない)

けれど、それと黙って殺されるのは、別問題だ。彼女はまだ諦めてはいない。

彼女が彼を手助けできないと、まだ決まった訳でも無い。それに、こんな事で死んだら、彼が悲しむ。

(自分一人の生命じゃないから。でも・・・・・・やっぱり私、ここで死んじゃうのかな)







「ふん。20分だけ粘ったのは褒めてやる」

「・・・・・・それはどうも」

「だが、所詮はアマチュアに毛が生えただけだな」

銃弾。それはルリの左腕を抉った。防弾コートといえど、フルメタルジャケットのライフル弾を防げはしない。

ただ勢いは確実に殺がれ、本来なら血管を切っていったであろう銃弾は皮膚を切るにとどまった。

相手がやけにおしゃべりである事が、彼女は気になった。

まずは風の音や移動の気配を死なせる為にスピーカーを使っている、これは確実だ。

次に彼女の言葉を拾って、位置を常に把握している、これもありうる。

ただそれ以上に。何故相手が集中しないのか。まだ相手―――"除去する者"は本気でないような気がした。

本気なら体格を生かした得意の接近戦で一気に勝負を決めてきたような気がする。

あくまでもそれは直感で、本当はただ相手がリスクを恐れて―――ありえない。

時間をかけすぎれば彼女には援軍が来る。そうなれば敵に勝ち目は無いのだ。それなのに、だらだらしすぎる。

「いつまでおしゃべりしているんですか。さっさと素人猫一匹、殺したらどうです?」

「逃げ回るだけの兎だ。じっくりと痛めつけて殺してやるだけの事だ」

またしても銃弾。すぐ横の壁に穴があいた。敵の位置が大体わかってくる。

"相手"から"敵"へ。今、あの男はもはや師匠でも何でも無い。敵なのだ。そう、彼女は自分に言い聞かせる。







だが、どうしても。何かが彼女の心に引っかかっていた。一般には『良心』とでも呼ぶべきものだろうか。

実際に人をこの手で殺した事が、彼女には無い。

ナデシコ越しに殺した事はある。それこそ相転移砲の座標を固定したのは彼女だ。何千人と抹殺してはきた。

だが、所詮は機械越し。それに"戦争"という言い訳が、彼女の中にはあった。

それが今は無い。やるとしたら、自分の手を血に染めなければならない。

それを彼女は少し躊躇っていた。冷血にはなりきれなかったのだ。







不意に頬をかする銃弾。軽いとは言えない痛み。

傷口から血が滲みだす。黒手袋におちる紅い斑点。そして―――死への恐怖。

この時彼女ははじめて死ぬのが怖いと思った。ほんの少しの、僅かな感情だが、そう思ったのだ。

あと数センチ。もう少しで自分は死ぬ。死の足音は確実に近づいてきている―――

「死ぬ前に一ついい事を教えておいてやろう」

男の声。威丈高でかわいた、嫌に耳に残る音の羅列だ。

「何ですか?殺すなら、さっさと殺せばいいのに」

彼女の声はまだ冷静だった。感じているに違いない恐怖は、冷たい声色に覆い隠されている。

そんな彼女の様子に鼻を鳴らす男。小娘が、そう言いたげな風に―――









「お前の家族、テンカワ・アキト。その両親を火星で殺したのは、俺だ」

次の瞬間。ルリの身体に軽い漣が奔った・・・・・・






























「あの男。やはり、信用するにはたりない相手でしたか」

そう呟きながら。プロスペクターは自慢の赤ベストの中に投げナイフを忍ばせた。

手早く準備。報告があってから2分。腰にホルスターに収めた拳銃を吊り下げる。

そして、手には小銃。防弾ベストも忘れない。相手はなかなかの難敵だと、彼が一番よく知っていた―――







「答えてくれ。君が・・・・・・君が、テンカワ夫妻を殺したのか?」

若き日の自分。あの頃はまだ言葉遣いもどこか高校生に近いようなものがある、そのくらいの青二才だった。

ソファに腰を埋め。幼馴染は顔をあわせようとはしてこなかった。テーブルの上の、コーヒーを眺めている。

「頼む。真実を教えて欲しい。会長から2週間前、君は何と言われたんだ?」

あの頃の自分は、ネルガルの火星司令。その後、本社にて他の部署に左遷。そして―――似合わぬ正義漢。

テンカワ夫妻には何度も私的に世話になった、そういう事情はあった。

そして、黒いネルガル、会長の周囲の暗部がどうしても許せなかった。自身も一人の暗殺者だったにも関わらず。

人として越えてはいけない一線がある。その事を本気で信じていた―――いや、これは今でも信じてはいるが。

研究成果の独占の為に無抵抗の研究者を暗殺するなど、許せなかった。酷いと心の底から思った。

そして目の前の幼馴染がそれに加担している事を―――どうしても信じたくなかった。理性では答えが見えていたのに。

「・・・・・・俺は暗殺者だ。雇われ主の指示に従う」

「そう、なのか」

抽象的な一言。だが、それは自分を絶望させた。やはり彼がやったのだ。

暗殺者として雇われ主の事に具体的に触れるのは良くない事だ。だからこそ、彼なのだ・・・・・・

「そしてお前に一つ警告しておかざるを得ない。この件をかぎまわるのはやめておけ」

「・・・・・・それは会長の意志、ということなのか?」

「さあな」

無言の2人。やがて若き日のプロスペクターは立ち上がる。

「そうかい。なら、もう君に会う事もあるまい。君があっち側の人間だとはわかったから」

こうして2人は決別した。その後、3ヶ月前まで。2人の道が交わる事は無かったのだ―――







(だからといって。今度もまたアキト君の御家族を殺させる訳にはいきませんな。

ルリさん、もう少し頑張ってくださいよ。あの男は病弱の身、私がこの手で始末をつけますから)

通路を走りながら。彼は己の過去を振り払う為にも駆け出していた・・・・・・






























「・・・・・・くくくっ!楽しかったぞ、テンカワの妻の額に銃を突きつけたときの、あの怯えた顔。

ちょうど貴様みたいな白い肌の女だった。どうせなら攫って散々玩んでやりたかったが、

そいつは時間の都合で無理だったんでな!代わりに貴様を蹂躙してやる」

酷い吐き気がする。狂気の沙汰だ。恐らく今回の件を引き受けたのも、それが目的で・・・・・・

ロケットランチャー。隣の建物が吹き飛ぶ。爆風が彼女の身を煽った。

「くっ・・・・・・この、悪魔」

「それがどうした?ふん、素人の貴様が俺を止められる訳が無い。

精々そこで震えていれば、もっと楽に死ねたのだがな。抵抗するから傷が痛む事になる」

彼女の瞳が燃える。こんな男に、自分が弄ばれるのは気に入らない。

「テンカワの息子に貴様が苦しみ悶える様子の写真を送りつけてやろう!

奴の家族全てがこの俺に殺される運命だった、その事を遅まきながら気付かせてやる。

世の中を甘く見てそれが叶わなかったから復讐だと?お笑いだな、所詮力の無い奴の癖に」





「あなたに!あなたにアキトさんの何がわかると言うの!!」

もう我慢できなかった。あの減らず口を切り裂いてやりたい。

私のアキトさんを、その生き方を侮辱する人間は全部この手でバラバラにしてやる・・・・・・!

「雑魚が、死ね!」

半身が丸見えだった。怒りのあまり忘れていたようだ、相手の銃口の位置を。

フルメタルジャケット。ルリの右脇腹付近に着弾する。よろめく彼女。"除去する者"の視界から消える。

「ふ・・・・・・っ。止めだ」

彼は立ち上がり、一気に間合いを詰めた。今の一撃で確実に彼女を仕留めたはずだが、視界から消えたので確認できない。

止めを刺してやるつもりだった。勿論この手で。不適格者の、敗者の絶望に歪んだ顔を―――彼は期待していた。





だが。





200mの距離を走り、曲がり角についた所で。倒れているべきところには、ルリの姿は無かった。

「な・・・・・・っ」

壁には期待したよりはずっと少量の血がついているだけ。そして、血痕も道にはほとんど残っていない。

不意に後方、人の気配。何か、敵意を感じる。振り向いて応戦を―――





次の瞬間。彼の胸、心臓を刃が貫いた。





「うぐっ!!」

どうやって―――凄まじい苦痛の世界の中、僅かによぎった疑問。だが、考えてみれば当たり前の事だった。

ホシノ・ルリはB級ジャンパーだ。当然有視界、距離数百メートルなら簡単に跳ぶ事が出来る。

そして右脇腹は多数の装備を収めている場所だった。拳銃弾なら防げるコートに装備。弾の勢いは殺がれる事になる。

見下ろしてみれば、彼女の脇腹は確かに傷ついてはいた。だが、内臓を抉るほど深くは入ってない。弾が逸れたのだ。







「はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・っ!」

彼女の手に広がる生暖かい感覚。紅い液体。男の、血液だった。

ナイフを抜いて、遠ざかる。脇腹が痛い。壁になんとか寄りかかり、左手で押さえる。

「はぁ、はぁ・・・・・・。あなた、殺されようとしていた。どうしてです?」

ひとたび正気に返り考えれば―――男の行動は不可解すぎた。非効率過ぎるのだ。

たぶん、いや絶対に。男は自分を試していた。自分が人殺しを出来るかどうかを。

勿論自分が不甲斐無かったら殺すつもりで。だけど、決して確実とはいえない方法で・・・・・・。

どうして、こんな方法をとったのだろう?どうして、どちらか片方が必ず死ぬような方法を、わざわざ?







だが、男は―――"除去する者"とかつて呼ばれた男は、彼女の疑問に答える事は無かった。

既に事切れていたのだ。当然ともいえる、彼とて人間なのだ、心臓を一突きされればほとんど即死だろう。









それは冷厳な事実だった。

彼女は、人を殺したのだ。間違いなく、彼女は人殺しになったのだ。

それまではただ、人を殺す方法を知っているだけ。その知識が、実践を伴う―――

彼女はもはやただの人間では、無かった。

一般社会、日常に戻る事は出来そうに無かった。

彼女の心自身が日常への帰還を否定するだろう。もう、無垢では無いと―――

















ドームの入口。遠巻きに見つめる男達。

「ルリさん・・・・・・貴女までがそうなる必要は、ありませんでした」

そう呟くプロスペクターの表情は、沈痛そのもの。彼女を待っている未来を思って、だろうか?

それとも。決別したとはいえ、元は幼馴染が死んだ事に対する哀しみ故なのだろうか?

ゴートと月臣は無言。彼らもまた、彼女の心中を思ってか、声を掛ける事は出来なかった。





そして、彼女の家族。アキトは死体の側で震えるルリに声を掛けようとして―――躊躇う。

固く結ばれた口。己の責任、罪をこれほど痛感した事は無い。彼の表情はそう言いたげだった。

言いたげだが、口にはおいそれと出せない。それを口にする事は、彼女の行為に対する冒涜だから・・・・・・











―――『戦いの前』、それはもう終わりを告げる。


































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あとがき(手抜き仕様)




ルリ訓練編が終わりました。ルリを追い込む為の仕掛けがいっぱいな話でした。

予定通り、また多数の読者さんの予想通りオリキャラは死にました。

まあ当然といえば当然ですね。ああいった嫌な奴は死んでなんぼとも言えますし。

勿論、作者自身が嫌な奴では、という指摘についてはノーコメントの方針でいきます(おい!)

さて、今回は多くを語りません。何しろ1日お待たせしてしまいましたし、次が大事なので。

ルリがルリらしくなる為に。そしてアキト×ルリが実現する為に。次話以降をお楽しみに!





それでは。次回もアキト×ルリで行こう!




今回は急いでいるし疲れたので黒塗りはありません(ぺこり)


b83yrの感想

近代戦じゃ敵を殺すのは、戦いというよりも、『作業』になっちゃうんですよねえ

砲兵なんて、敵が完全に見えない事も多い、先行している観測班の情報に元に、『場所』に対して砲撃を加えてる

まあ、比較的近い距離で砲撃を加える場合なら、敵が見える事もあるが

これが、『ミサイル』ともなれば、更に『作業』になってくる

で、『戦い』よりも『作業』の方が、効率よく人が殺せる訳です

ルリが『作業』に徹している方が、人を殺す数は多くなる

なのに、『作業』よりも、『戦い』を避けたがる人も多い

矛盾してはいます、でも『直接的』よりも、『間接的』の方が抵抗が少ないっていうのは、『理屈では矛盾していると解っていても、『実感としては』解るもの』だという

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