「この俺に人を育てる依頼をするとは・・・・・・」

男の口元が歪む。端整な容貌に浮かんだそれ。

それはまごう事なき笑みだった。何かを心待ちにしている―――

「プロスペクターの奴も、焼きが回ったか」



























Bride of darkness



第5話 『The ordeal』











「・・・・・・それで彼女に暗殺術を仕込めと。僅か3ヶ月で、か」

応接間。黒檀のテーブルの上には男の淹れた紅茶と幾枚かの書類が配置されていた。

「ええ。君でなければ不可能な仕事だと思ってますよ、あんど「その名はやめてもらおうか」」

プロスペクターの台詞を遮るその男。言葉には、力があった。

「お前と俺、もはや名前で呼び合う仲では無いはずだ、プロスペクター」

「・・・・・・そうですな、前会長閣下のリムーバーさん」

2人の目線が交わる。そこに微かな―――ほんの微かだが、火花が散ったように、月臣には感じられた。

「ふん。しかしまあ、それがよくも可能な事だと思い込む事が出来たな、貴様」

「史上最高の暗殺者の貴方でなければ無理だと思って、何が悪いですかな?」

紅茶を取り上げて軽く口に含む男―――"除去する者"。漆黒の瞳が月臣に向けられる。

「月臣元一朗、名にしおうお前に会えて光栄だ。で、今はお前が彼女の訓練教官を務めると。

正直どうだ?この少女、ホシノ・ルリとやらは?」

「・・・・・・伸びは良い。元々体力不足だったが、今は体格に似合わず頑強な身体を持っているとは保障できる」

「そうだな、少なくともこのデータを見るならば、素晴らしい伸び率だ。

元々遺伝子強化人間だ、IFSに対する適合だけではなく、実際は体力に関しても強化されていたとも考えられる。

今までは学問とIFSに対する訓練だけを積んできたから、それに誰も気付かなかっただけで、な」

男の手が一枚の書類をとり上げる。彼女のここ5ヶ月の体力の伸びを端的に示すデータ表だ。

「なるほど素晴らしい素材だ。だが・・・・・・所詮は女だな」

「なんですと?」

プロスペクターの刺すような視線に、だがその男は真っ向から受け止めてみせた。

「そうだ、女だ。いや、人間だと言い替えてもいいか。

限界はある。それもこのデータを見る限り、段々とその限界に近づいてきているようだな。

まず体力面において俺の使う暗殺術には不足している。そして何より3ヶ月という期間だ。

どれほど彼女が物覚えのいい人間だとしても、この俺が30年間考えてきた暗殺の手口を覚えるには、

1年は確実に見てもらいたいものだな。ま、お前の事だ、3ヶ月しかとれぬ理由があるのだろうが」

「・・・・・・敵の姿がおぼろげながら見えてきてですな。相手は巨大かつ、準備を整えつつある組織だとわかったのです」

「ほう?」

「1年待てば、恐らく手遅れとなる。半年でもわからない。だから、貴方には3ヶ月という時間しか与えられませんな」





しばらく無言の3人。空になり白い底が見えるティーカップと、まだ一口もつけていない2つ。

まだ肌寒い高原の春。暖炉の薪が音を立てて燃え上がっている。





「・・・・・・ふん。ネルガルは上層部の都合だけで動く組織だからな。

そして俺はお前達の依頼を受けてにべも無く断るほど人は出来てはいない。金は好きだしな」

「ほう、となると受けてくれますか?」

「お前達のやり方だ、俺の静かな生活を奪うつもりなんだろう?ま、それに俺にはもう余命も長くないしな。

だが、条件は当然存在する。わかってるな?」

「ええ、まあ」

「一つは金を出せ。特に今回は俺の技能を他人に教え込むんだ、暗殺者としての俺はもう活動できなくなる。

そして、二つ目は・・・・・・」

男の目が軽くつりあがる。黒手袋をした指先がテーブルの上、ルリの写真を示した。





「俺の好きなようにやらせてもらう」






























「本当に彼でよかったのか、プロス殿?」

帰りの飛行機の中。月臣の中では一つ、後悔のような気分が膨れ上がりつつあった。

「とおっしゃいますと、何ですかな、月臣君?」

一方プロスペクターは別にいつもと変わりなく、人好きのするその笑顔を顔に湛えていた。

「彼、"除去する者"と言ったか。彼の瞳は本物だったと見受ける。

だからこそだ、本気でルリ君の生命を奪いかねない。彼は危険だ」

「わかってますよ」

「だったら、何故!?」

プロスペクターは立ち上がる彼を手で押さえると、真剣さを帯びた口調で話をはじめた。

「彼は病弱の身です。元々多数の持病を抱える身でしたが、今回のは特にひどい。

間違いなく余命は無いでしょう。そして、一時のような実力も無い。いざという時は貴方でも処理できますよ」

「しかし」

「それに、5ヶ月近くかかったんです。まず彼以外の人間をあたってみましたが、ほとんど行方知れず。

そして最後の手段として彼を探してやっとここまでこぎつけたのですよ。そして、彼しかもういないのです」

「いないとは?」

「一つはルリさんを諦めさせる事が出来るだけの厳しさで彼女にあたる事の出来る人物は、です。

そして、もう一つは―――死に絶えたのですよ、既に。他の人物達はみな」





「何だと!?」

衝撃的なその事実に思わず驚きの声をあげる彼。

もしこの機体がネルガルの貸切でなければ、多数の人間が怪訝に思った事だろう。

「戦争中からです。一流と呼べる暗殺者の数が急減しはじめたのは。

ですが特に終戦後この1年半、特に消息不明となる人物が急増したのですよ。

その時期は今我々が相手をしている謎の組織が活動を始めた時期と重なる・・・・・・

恐らく、敵工作組織、集団によるものでしょう」

「くっ!だからこそ、あの"除去する者"を使わざるを得んと、そうプロス殿は思われるか」

今、ネルガルは圧倒的に不利だった。敵の全貌は、そして組織名すらわからず、

ほぼ全てのA級ジャンパーは敵に取られた。そしてボソンジャンプの利権はクリムゾンらに奪われた。

外堀からだ。外堀から、敵はネルガルを埋めようとしている。あるいは、地球連合そのものすら。

「はい。使える数少ない人間を使わないほど、我々には余裕が無いのですよ、月臣君」

「・・・・・・そうだった。俺はすぐに現状とやらを忘れがちになるようだな、プロス殿。

確かに今の我々に贅沢を言っている余裕は無かったな。それ故、テンカワ・アキトを利用するのだから」

月臣の言葉。微かに、ほんの微かだけ、プロスペクターの顔に暗い影が堕ちた。

「・・・・・・ともかくです。月臣君、アキト君は頼みましたよ」

「期待には一人の男として答えよう」






























「これはここにっと。で、あれはあそこに・・・・・・こっちは終わったぞ」

「こっちもだ。ったく、ここにこんなトレーニング施設をつくる事になるとは思わなかったぜ」

広い空間。所狭しとトレーニング用機材が並べられている。

その中男達は作業を続けていたが、とりあえず一仕事終わったようだ。

「にしてもさぁ、おかしくないか?」

「何が?」

一人の男の問いにもう一人が怪訝そうな顔をする。

「酸素濃度を薄める設備に重力調整機構。まあこいつは一流アスリートも使っているからいいとして、

あれは何だ?立って歩けないぐらいに天井を下げた部分がある、あの部屋は」

「さぁな。まあ依頼主の考えだ、俺達にはあまり関係が無いさ」

「にしても、ここはまるで監獄みたいだな」

白塗りの壁。窓の一切無い部屋の数々。ところどころにある金属棒の出っ張り。

「まあそいつは言えてる。でもゴート先輩の命令だ、何かお考えがあるのだろう」

「ま、違いねぇな」






























3月も終わりになろうかという頃。

このネルガル本社の地下施設には桜は無いから季節は中々感じ取れない。

だが少なくともカレンダーは捲れていくし、施設に勤める研究員にとっては春の休暇の時期でもある。

その中、休みの無い者達。テンカワ・アキトとホシノ・ルリは今、応接室にいた。

「そうか、貴方がルリちゃんに教鞭をとってくださるのか」

アキトの前。黒髪に漆黒の瞳を持った男。ダークスーツが印象的だが、どこか育ちのよさを感じさせる。

今、紅茶をその手に取る動きもしなやか。軽く口をつけてから、カップを机に戻す。

「はい。ホシノ・ルリさんを私が教育させていただきます。僅か3ヶ月ですが、ルリさんが戦場で死ぬような事が無いよう、

十分な内容をすべて教え込んでゆくつもりです。テンカワさんのご期待に沿えるよう努力しましょう」

「そうか、ありがたい。助力を期待する」

アキトの手がカップをとる。まだ十分にある中身、それの半分を飲み込んだ。

もっとも味を感じないので、ただ何か流体を飲み込んでいるだけなのだが。礼儀というものである。

一方ルリの方は、これまた失礼にならないように3分の1ほどに既に手をつけている。

「どうかよろしくお願いします、先生」

ルリが頭を下げる。その様子を微笑みながら見ている男。

軽く口直しとばかりにテーブルの上、クッキーに手を伸ばし、頬張る。

「・・・・・・ではまずカリキュラムですが。この書類に目を通してください」

そういって鞄から何かを取り出す男。2人の視線がその手つきに集まる。

差し出されたのは2組の書類。1組ずつアキトとルリが手にとって、眺める。







「・・・・・・と言う訳でして、どうですかな?」

そういって目線を2人に移す男。その先では信じられない光景があった。

ぐったりとしている2人。瞼は閉じ、手から書類の束が床に落ち。ソファに全体重を預けている。

「・・・・・・他愛も無い。素人などこんなものか」






























重い。黒、見えない、自分の足が引き込まれている・・・・・・。

足?全身?ともかくひどく重い。頭がまわらない。どうしたの、私。

「・・・・・・アキトさん」

なんだか、どうでもいいや。私は眠いんだもの。アキトさんも、きっと、そう。

眠い?ずっと眠ってた、のに?前いつ起きてたんだろ、私。なんだか、起きなきゃいけないような。

「ん・・・・・・っ」

あれ。私、床にいる?冷たい、全身が締め付けられている。

何か、音がする。誰かが歩いてくる音。疲れていて、道端で、寝ちゃった・・・・・・?

「んんっ」

「起きろ」

男の人の、声。アキトさん?違う、こんな声じゃないもの。アキトさんはもっと、優しい・・・・・・





きゃっ!!!











「ぐっ!!」

ルリの身体が2つに折れる。腹部にめり込んだのは、ダークブーツ。

容赦の無い一撃。ルリの閉じられていた瞼が見開き、意識が現実へと戻される。

「お目覚めか、囚われのプリンセス」

「こ、ここは・・・・・・?」

半身を起こす彼女。顔が男の方に向き―――驚愕に歪む。

「あ、貴方は・・・・・・!?」

「そう、先生だ。出来の悪い生徒さんよ」

端整な頬に笑みを浮べる男―――"除去する者"。右手がルリの長髪を掴み、乱暴に引き上げる。

「痛い!」

「暗殺術の生徒になるというから少しは期待してみれば、これだ。

薬殺に対する備えが少しも出来ていない。注意力も散漫。話にならんな」

「もしかして、私を誘拐しに?」

「来るわけがないだろうっ!」

蒼銀色の長髪。それを振り回してから手を離す。ルリの小柄な身体がコンクリートの壁に打ち付けられた。

「うぐっ!」

「馬鹿女。既に死んでいる貴様を誘拐して何になる。俺は貴様の教官だ、暗殺術のな」

「だったら、どうして・・・・・・うっ!」

ルリの腹部にまたも容赦無く蹴りが入る。つかつかと歩み寄り、ルリの前髪を引っ張りあげる彼。

「だから貴様は馬鹿女なのだ。先程のはテストだ、そして貴様は不合格だった」

ルリの目に軽く涙が浮かぶ。これほど酷い扱いを受けた事は、半生の中ほとんど無い。





「本当は貴様なぞに教えたくは無い。むしろさっさと殺したいぐらいだ」

「なっ!?」

「だが他ならぬネルガルの頼みだ。給料もいい。もっともそれでも、貴様はどうしようも無い屑だがな」

断固たる口調で決め付ける彼に、ルリは反論できなかった。

したら、もっと酷い目にあう―――だが、その彼女の身に更なる絶望が降り注ぐ。

「なんだったら諦めてもよいぞ。だが、だ。世の中には機密というものがあってな・・・・・・」

容赦なくルリを引っ張ってゆく彼。彼女の力では抵抗はほぼ出来ない。







到着した部屋。その中央では両手両足を拘束された男が横たわっている―――アキトだ。

「アキトさん!」

「他ならぬ暗殺術だ。俺にとってこの情報が無意味に流出されるのは防ぎたいのでな。

俺をこれ以上失望させるな。させたら・・・・・・テンカワ・アキトを殺す」

アキトは今だ気を喪っていた。一方のルリ―――彼女は精一杯の虚勢を張ってみせた。

「・・・・・・無駄です。貴方がどれほどの実力か知りませんが、プロスさんに月臣さん、ゴートさんがいます。

彼を殺す前に貴方が殺されるのがオチです。そんな状態で私が・・・・・・っ!」

目にも止まらぬ速さ。ルリの喉元に映えこんだのは、一本のナイフ。

「その時は、貴様を殺す事になっている。安心しろ、プロスは物分りのいい奴だ、貴様を見捨てたりはしない」

彼女は凍りついた。相手の本気を、身をもって味わっているのだ。

「ふん、威勢がいいのはそこまでか。一つ言っておこう、貴様が今着ているスーツは特注品でな」

そう言うなり彼女を突き飛ばす彼。宙を舞う彼女の身体には、白色の全身水着のようなスーツがぴったりとくっ付いている。

地面に叩きつけられる寸前。彼女の身体が強張る。そして、絶叫。

「きゃあぁぁぁっ!!!!」

「・・・・・・数十から数万Vまで電気ショックを身体の各部位に与えられるという訳だ。

その気になれば意思に反して身体を動かす事も出来るという事を覚えておけ」

「う、うぅぅぅ・・・・・・。あぁぁ・・・・・・」

口を半開きにして呻く彼女。身体は小刻みに震えている。

だがその彼女の腕をとって無理やり立たせると、彼は冷酷に宣言した。

「それでは、授業の開始といこうか」






























「はぁっ!はぁっ!はぁっ・・・・・・うっ!はぁはぁはぁ・・・・・・」

「ほらほらさっさと足を止めたらどうだ?諦めてしまった方が楽になるぞ?」

ひたすら足を動かすルリ。そしてその様子を無表情で―――微かに蔑みの様子で見やる男。

彼女は今トレッドミルの上にいた。トレッドミルというのはランニングマシンの事で、

地面が逆方向に彼女を機械から振り落とすように自走し、それに逆らって本人は前に進み続けようと努力し、

その結果として本人は停止しながら脚力と持久力を鍛える事が出来る―――という仕組みである。

このトレッドミルは特注品で様々な面で市販品より改良されている。まず市販品は大体最高時速16kmぐらいだが、

これは短距離アスリートでも利用できるように最高時速40km以上が出せるようになっている。

次に手元のグリップの形状が変わっており、鍛える人間に対して両側、直角にグリップがある。

この結果元々遅れ気味なルリはグリップに必死にしがみつかないといけないが、身体は後ろに引っ張られ、

更にグリップが滑りやすくなっているので、握力(の持久力)もまた鍛えられるという寸法である。





遅れ気味といったがそれは仕方の無い事だ。何しろ彼女はもう40分近くこの上に乗せられている上に、

路面の速度は平均24kmと、この時代のフルマラソンのトップアスリート並みの速度で走らされているからである。

(尚2006年2月現在、男子マラソンの世界記録はポール・テルガトの2時間4分55秒、平均時速20.28km。

女子マラソンの世界記録はポーラ・ラドクリフの2時間15分25秒、平均時速18.7km)

足は縺れ気味、たまに素っ飛ばして路面に弾かれて高く上がってしまっている。その度に腕で押さえつけているのだ。

このような場合トレッドミルは自然に速度調節をして、本人の努力に最適な速度に合わせる事が出来るのだが、

その機能は現在カットされてしまっている。無論この男、"除去する者"の仕業である。

「うっ!!くはっ・・・・・・はぁはぁはぁ」

「諦めなよ。諦めれば貴様は楽になる。家族など大したものではないさ?」

「そんな、事!うぅっ・・・・・・ひゅーはぁ、はぁ、はぁ」

「ふん、口だけ努力を唱えるだけの女の癖に。さっさと諦めて殺せばいいんだ」

彼の手がスイッチを押し込む。その瞬間、彼女の身体が後ろのめりになった。





「えっ!!くぅっ・・・・・・うぅぅ・・・・・・」

このトレッドミルの改良点の一つ、スタビライザーがついていて、上下左右に傾かせる事が出来るのだ。

上下は20度ずつ。日本一急な坂道は20度前半ぐらいと言われているから、恐ろしい勾配だ。

そして左右は10度ずつ。地面の歪みをある程度まで再現する事が可能となっている。

ちなみに今彼女はちょうど10度の勾配を登っている。まだ緩やかな傾斜だが、消費エネルギーは跳ね上がる事になる。

「う、くぅ・・・・・・はぁはぁはぁ・・・・・・」

完全に彼女の足はついていけてなかった。頑張って走っているが、体重の半分は確実に腕が支えている。

「苦しめ。お前が苦しむ顔を見るのが俺の楽しみだ。諦めないなら、精々地獄の苦しみを味わえ」





ルリの細い腕が震えている。少しずつ、ほんの少しずつだがグリップから滑ってゆく彼女の手。

「ん・・・・・・くぅっ!!だ、駄目」

そして。手のひらの中のグリップの感覚が消える。次の瞬間、彼女は地面にたたきつけられた。

「きゃあぁぁぁっ!!や、やめ・・・・・・ぐぅぁああっ!!」

彼女の身体に奔る電流。スイッチを押し込む男の口はいかにも楽しそうに歪んでいる。

「くくっ、出来の悪い生徒ってのも悪くないな。特に女ってのは、悲鳴が美しい」

「あぁぁぁあっ!!!」

「ほらほら、もう身体がボロボロになるぞ?一言諦めるって言えばいいんだ」

スイッチから指を離し、彼女につかつかと歩み寄る彼。その彼に対して彼女はなお強い眼光を向ける。

「・・・・・・はぁ、はぁ。そんな、事、しません・・・・・・」

その途端。彼の口元がにやりと歪む。それは心底この状況を楽しんでいるものの笑みだった。

「ふぅん、健気だな。いいさ、最高だ。俺を失望させるなよ、ホシノ・ルリ」






























その後ルリの身体、そして心は苛め抜かれた。

しまいには立てなくなった彼女の髪を引っ掴んでトレーニング機材の間をまわるダークスーツの男。

どこにもそこには「暗殺術」などは存在しない。あるのはただ、ルリの体力を限界まで搾り取る事だけ。

「かはっ」

懸垂をしている途中で握力を喪い、地面に叩き付けられた彼女。その口から軽く血が吐き出される。

だが、彼はそのまま彼女を引っ張りまわした。その仕草には一片の慈悲も込められていない。

まるでそれは彼女を殺そうかとしているかのようだった。明らかにやりすぎである事は明白である。

「死にたければ勝手に死ね。だが、貴様の死を悲しむ奴などいないぞ、人形」

「う・・・・・・はぁはぁ」

口答えする余裕は彼女に無かった。いや、もはや彼女は半分気をやりかけていたのだ。

心の隅に浮かんでくるのはあの研究所。あの2週間、彼女は今と同じような容赦の無さで扱われたのだ。

(人形、私は人形・・・・・・?そう、人形かもしれない。私にはこういう風に、子供に扱われるように、

人間の自由にされるのがお似合い・・・・・・。でも、私は。なによりアキトさんの人形だから)

くらくらする頭の中、ずっと心の中でアキトを想い続ける彼女。どうしてここまで強固なのか、折れないのか?

それは―――彼女の存在意義だから。アキトが生きていると知ってはじめて、彼女は前向きになれたから。

「きゃあっ!あ・・・・・・」

男の蹴りが胸に入る。その瞬間、彼女は崩れ落ちるように地面に倒れ臥した。

"除去する者"はまさに容赦が無い人間だった。そして、ルリのような少女を虐めるのが好きな、歪んだ人間だった。

それを彼女は身を以って知った。依頼だからといって何一つ手加減しない。

それどころかこれほど事あるごとに彼女を蹴り飛ばしてくるのだ、相当のサディストである。

もっとも、そういった歪んだ人間で無ければ多数の暗殺などこなせないのだろうが。











30時間後、やっとルリは解放された。

自分の寝室のベッド。その上に彼女は文字通り倒れこんだ。

ぴったりと全身の肌にくっ付いてきて、かつウエストや手首をきつく締め付けるスーツを脱ぐ余裕も無かった。

疲労困憊。ずきずき痛む全身をどうにかして休めたかった。意識も眠ってないので跳びがちである。

何も考えたくなかった。食べもしてないし、飲み物も口にしていないので、喉は焼けるようだが。

ともかく何も考えたくなかった。このまま意識をずっと闇に預けて、苦しまないでいたい―――









ドアが開いた事に、彼女は気付かなかった。

死んだように眠る―――それは今の彼女のような状態を指すのかも知れない。

息をほとんど立てず、胸も微かに上下するだけ。瞼は硬く閉じ、寝返りどころか、身じろぎ一つしない。

そんな状態の彼女が、傍らに男が立った事になど気付くはずが無かったのだ。

まさに神速だった。男が傍らから無針注射器を取り出して彼女の首筋に打ったのは。

呼吸がとまり、腕がだらりと垂れ下がった彼女。その右腕を持ち上げながら、彼は呟く。

「・・・・・・貴様の精神力が本物かどうか、試させてもらう」





―――これからだったのだ、"除去する者"が全ての判断を下すのは。






























「ん・・・・・・」

腕が重い。手首がひりひりする。なんだか―――苦しい姿勢の気がする。

少し腕を動かしてみる。動かない。金縛り?今度は思いっきり・・・・・・痛っ!







「んっ!」

眼をうっすらと開けた時。先に見えるのは、ただ白い壁だった。

顔を下げてみる。あるべき位置にあるはずの腕が見えない。顔を振って―――あった。

今、彼女の腕は左右に広げられていた。頭から見ての両腕の角度は120度より広い。

それで、下を見て―――膝が浮いていた。空を飛んでいるのでは無い。吊り上げられているのだ。

「くっ・・・・・・痛い」

じりじりと増してくる手首の痛み。手首は―――壁に固定されていた。両側適当な位置に壁があって、

それぞれの手首が拘束具で止められている。まるでこれは―――十字架にかけられたジーザズのようだった。

手首と腕の関係は一切変わらない。変えようともがこうとすると、筋肉が切れそうなぐらいの激痛が襲う。

急いで膝を折って脛、足首の辺りから床についている足の位置を変えて踏みしめてみる。

中腰。このままではきつい。ちょうど深い姿勢で空気椅子をしているのと同じぐらいだからだ。

立てばいい―――そう思って膝を伸ばしてみる。手の拘束が少しだけ緩む。いける―――ごつん。

頭の上、そこには柱みたいなのがずっと前後に通っていた。高さは彼女の身長にずっと足りない。立てない。

もがいてみて立とうとする。だけど柱の太さはあり、どんな姿勢でも彼女は立てなかった。中腰になる。

いや、一つだけ。脚をぴんと伸ばして背中を上に通る柱につけて。こうすれば、まだ楽―――





「きゃあぁぁぁっ!!」

思わず漏れる悲鳴。彼女の全身にぴたりと張り付いているスーツからの放電だ。

力を喪った彼女は膝をがくりと折り、姿勢が落ち込む。手首に拘束具が食い込み、激痛を彼女に与えた。

「それは駄目だな。背中を柱につけると電流が流れる仕組みになっているからな」

どこからともなく聞こえる声。見れば壁の一部が透けていた。その先にあるのは、あの男―――

「くぅぅ・・・・・・。こんな事、どうして?」

「何、出来の悪い生徒への折檻だ。貴様は何一つ出来なかった。特に脚が弱すぎるからな。

それで空気椅子でもやっていれば多少は改善されるだろう。何にせよ武術は脚からだ」

「うぅ・・・・・・」





腕の角度が120度以上という事は、分力の関係から言えば、ルリの片腕あたりに掛かる力

ルリが脚で支えられない全重量と等しいか、それ以上になる

彼女の体重は同年代の少女と比べても更に軽めだが、全体重をもし腕に預ければ、

それぞれの腕が彼女自身の体重を片腕だけで支えているのと同じになり、非常に苦しい。

そして何より手首の拘束具の問題がある。それが事実上彼女1人分の体重を支える事になり、

当然深く食い込む事になるだろう。スーツがあるから皮膚は食い破らないが、激痛である。





その為彼女は脚を前に出して膝を曲げる―――背中が壁につかない空気椅子をするしかない。

背中を上の柱につけて脚を伸ばす姿勢がとれれば、腰はともかく脚の筋肉はあまり疲れずに済んだのだが、

それはあらかじめあの男―――"除去する者"に封じられてしまった。

だが、彼女はついさっきまでずっと身体を苛め抜かれた身である。脚も当然例外では無く、

本来なら立つ事すらかなり厳しいのだ。ぶるぶると震えて、必死に体重を支えようとする彼女。

「う・・・・・・はあっ。こんな、酷い・・・・・・」

酷かった。やっと休めると思ったのに。その心を隙間をあの男は突いて来たのだ。

今まで気張っていた分だけ、集中できない。硬く決意して、揺るがなかった彼女の心が、どうしても軋み始める。

「う・・・・・・だめ

20分後。彼女の脚が力を喪う。その瞬間、ほぼ全体重がそれぞれの腕に載る。凄まじい激痛。

思わず苦痛に身を捩って。肩と腕の筋肉、そして胸と腹の筋肉がそれぞれ悲鳴をあげる。

それでまた捩って。悪循環。彼女はまるでからくり人形のように身を捩って、そして自分を傷つける。

手首の先の血の巡りが少し悪くなる。流石に考えたのか、血流そのものを阻害しないように

上手く拘束具をつけてくれたようだが、それでもこうも力強く引っ張られれば悪くなって当然である。









2時間後。彼女の顔は文字通り蒼白だった。体力を文字通り使い果たし、腕の筋肉がかなり伸びてしまっている。

彼女は一人だった。あの男はどっかに行って帰ってこない。多分寝ているのだろう。

となると、彼女はあと何時間放置されるのだろうか?もはや呻き声も出ない、ほとんど死に体の彼女が?

これは明らかな拷問だった。訓練とか鍛錬とかそういうレベルの話では無い。





あの男は自分を試しているのだ―――ルリは気付いていた。だが、どうしても心が砕けそうになる。

わかっていて、相手の意図が本当にわかりきって―――それでもどうしようもない自分が情けなくなってくる。

このまま苦痛から解放されたい。あの男から逃げたい―――そうとさえ思ってしまう。

そんな事をすれば、彼女の家族、テンカワ・アキトは死ぬ。あの男は本気だ。絶対に殺すだろう。

彼女には確信がある。だが、それでも逃げたいと思ってしまう。それほど、あまりに辛い仕打ち。

(こんな事で折れるなんて・・・・・・私、アキトさんの事をそんな風に捨てられる、その程度の人だったの?)







5時間後。もはや彼女には時間の感覚が無かった。ただ苦痛を感じて、ぶら下がっているだけ。

時折耐えられなくて脚を無駄に動かしたり、数分間だけ空気椅子を何度も繰り返した。だけど、無駄だった。

(こうやって、ジーザズ・クライストも苦しんだのかな?釘で打たれてるからもっと痛い?それとも、自分を固く信じてるから?)

















たっぷり一日。

休養をゆっくりととった男、"除去する者"。病身の彼には、30時間ぶっ通しでルリを虐めるのにも相当体力を消費していた。

12時間ずっと眠ってから、テンカワ・アキトをこの事態に関連する記憶を完全に消してから彼の寝室に戻して。

もう餌としては十分だった。勿論あの30時間のうちにルリが―――そんな事があるとは思えなかったが―――折れていたなら、

それは断固としてアキトを殺すつもりではあった。もっとも計算どおり、ルリはそうならなかったが。

そうならなかった以上、アキトをこれ以上拘束する訳にもいかない。彼には彼の訓練があるのだから。

「後はこの結果次第か。ホシノ・ルリが俺の技術を受け継ぐ者として、相応しいかどうかは」

精神力。データなどを活用する彼だが、実際最後の局面で重要になってくるのは精神力だと思っていた。

その精神力には2種類。長期的に意識をはっきり保つ、根気強さとしての精神力。

そしてもう一つはごく短期的に。わずか数瞬に賭ける事の出来る、"気合"とか"明鏡止水"としての精神力。

今回は前者を調べ、同時に徹底的に強化する為の鍛錬だった。

・・・・・・勿論、彼自身が女子供を虐める事に快感を覚える性質である事は、覆い隠しようが無いのだが。

「ふ。このような仕事だ、一つは役得があっても構わんだろう。目的にも適うしな」

一人呟いて、施設への扉を開く。しばらく歩いて、その目の前にルリが現れる・・・・・・。







ルリは軽く眼を閉じていた。気を喪っているのだ。

そんな彼女を一瞥した後、彼は徐に壁のボタンを押し込んだ。

拘束が外れる。身体が投げ出され、地面に転がる。その衝撃に、うっすらと眼を開く彼女。

「う・・・・・・」

ほとんど目覚めないうち。今がタイミングだ。相手の心に入り込むには。

そしてまた、本物の精神力があるかどうかは、彼の術中に嵌まらないかどうかで示される―――

「そろそろ諦めて、楽になった方がいいんじゃないかな?」

今までと打って変わって、優しい声音。

「一言、諦めるって言ったら、気が楽になるよ」





ルリの口が軽く開く。そして、顎がほんの少し上がる。彼女は、折れようとしていた。

(もう辛いのは嫌。痛いの、やめて・・・・・・。だから、だからもう、嫌だから、だから)

彼女の脳裏を過ぎ去ってゆく光景。去年の八月、研究者達に酷い扱いを受けた時の事。

その中の一つ一つが素早く過ぎ去って―――だが、ただ一つが不意に引っかかる。






























一面ずっと黄色。その中にある、白い文字。あるいは記号のような、図形の羅列。

『サンプルA2014を注入する。これから、これからが見物よ』

一瞬の異物感。その後だった、私が"変わった"のは。

図形の羅列、それが意味を成してくる。何か、書いてある。

『なんて書いてあるか読める、お人形さん?』

・・・・・・。言葉じゃない、でも意味がある。それは、たぶん・・・・・・







『愛せよ。汝の側に居る者を。そして愛の為に汝の情熱を注げ』






























それは格言ですら無かった。彼女の心が読み解いた、それだけのものだから。

だが、何となく。彼女はここで諦めてはいけないような気がした。

諦めたら―――それでお終いになってしまう。そんな予感がした。

(アキトさんの為に全てを捧げる。私の全てを。私が生きてる、その理由が欲しいから・・・・・・。

そうじゃなきゃ、こんな事はしていない。そして、今やっている事が全部無駄になって欲しくないから)







それらは全て一瞬の出来事。彼女の頭は、横にゆっくりと振られた。

「・・・・・・いえ。私は諦めません」

「そうか」

短く、ルリの言葉がまるで当たり前であるかのように返答する彼。

既にこの男、"除去する者"が考えているのはより未来の事だったのだ。



































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あとがき




ルリ訓練編の中篇まで終わりました。なんだか、ルリいじめの回ですね・・・・・・。

こういったオリキャラは憎まれる人物じゃないといけないですね(しみじみ)。

多分そこの貴方あたりは"彼"について正確な予想ができたでしょうし、

また別の貴方あたりは"彼"が我らがルリルリに手をあげるのに怒りを覚えた事でしょう。

まあ、今回は非常に見がたい話になったかもしれませんが、その見がたさもとりあえず

あと1話でお終いです。あとは大体アキト×ルリなお話となってゆく予定です。

何か気分が悪い、もしかしたらするかもしれませんが、

そういう貴方にはび〜さんの電波シリーズでお口直しをお勧めします(おい)

とりあえずまだまだ読みづらい話は続くかもしれませんが、どうぞ継続してお読み下さい。




さて、このお話ではルリのアキトに対する依存が相当強くなっています。

これについては色々と疑問に思われる方がいるかもしれません。

何しろ劇場版のルリはアキトとユリカがいなくても一人で立派に暮らしていましたしね。

ただ、このお話ではルリが一度研究者に酷い目にあって、

更にサブロウタやハーリーとの出会いも無い(予定な)ので、こういったルリにさせてもらいました。

何となく違和感を覚える方は多いと思われますので、一応作者なりの言い訳理由を述べさせてもらいました。





それでは。次回もアキト×ルリで行こう!




さてと、かませ犬のオリキャラを出しました。

我らのルリルリに手をあげた罰です。次話では、ふふふ・・・・・・(謎)

自分がキャラにそうさせた事を棚に上げるりべれーたーでした。


b83yrの感想

ちなみに、私がこの手の特訓話で、一番好きなのは、パイナップルアーミーって漫画の『シエラ・ネバダの特訓』って回です

まあ、このオリキャラとパイナップルアーミーの主人公は、全然違うタイプですが



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