かつて戦争があり、そして、その戦争の目的を失わせる戦闘が火星極冠であった。
それは2198年3月某日のこと。

その戦闘の最中、敵味方に筒抜けの盛大な痴話喧嘩を披露し、その喧嘩をきっかけに周囲から強制的に結ばされた
そんな二人がいた。

言わずと知れたテンカワアキトとミスマルユリカのことだ。

そして月日はめぐり、いま四畳半、風呂無し、トイレ共同という男の住まいの前で、再びに盛大に言い争いを
二人はしていた。

またしても世間的には痴話喧嘩に類するたぐいの会話を延々と。

聴衆は二人。
手荷物を持ったホシノルリと、背中に大きなリュックを背負い、肩から大きな肩下げ鞄を下げたアオイジュン。
ジュンが両手で持っていた重たげな、かつ巨大なスーツケースは、いまは床に下ろされている。

時刻は、冬の空には、まだ黎明の時を迎えるには早い頃。
近所迷惑もはなはだしいが、隙間風の入り込むようなぼろアパートゆえにだろうか、
現在の入居者がアキト一人だったのは幸いなことだった。

それでも、近隣に近所迷惑なことは変わりはないのだが。

最初、アキトはまず説明をユリカにではなくルリやジュンに非常識な時間での来訪の釈明を求めた。
このあたりがミスマルユリカという人物への経験則というものだろう。

ルリの説明は端的に、ジュンにしては珍しく強い口調で、でも涙交じりな言葉で経緯の説明をした。
要約すると、ユリカは親娘喧嘩の果てにアキトの家に転がり込もうとしてきたらしい。

かつてのアキトであれば、いや、今でもそう変わりないのだが、流されてユリカを泊めてしまったかもしれない
それから、好きである事を理由にして、あるいはされて、ずるずると同居、あるいは同棲のような生活が
始まってしまっていたのかもしれない。

それはそれで楽しい事かもしれないし、きっとユリカはそれを望んでアキトの家に転がり込もうとしたのだろう。

でも、

『ルリちゃんは艦長のわたしが引き取ります。私、艦長さんだから、クルーに責任あるし』
 
そう言って、ルリを引き取ったのはユリカ。

出来レースではあったけれど、結局、大岡裁きに勝利してルリを引き取ったのはユリカ。
たとえ、その理由がミスマル家の持つ家柄、資金、名誉であったとしても、引き取ったのはユリカ。

でも、少なくとも家出の原因は、ユリカの親娘喧嘩。
なら、なぜそれにルリを巻き込めるのだろう?

目の前にいるユリカの取ったその行動は、どう好意的に考えても身勝手で責任を破棄した、
そしてルリを完全に無視したものとしかアキトの目にはうつらなかった。

あらゆることに対する選択に付属するもの、それが責任というものであり、
そしてそこから生じるのが義務というものだ。

そんな当たり前のことさえ昔の自分はよく知りもしなかった。
判ろうともしなかった。

モラトリアムからの卒業。
それは休戦条約が正式に締結され、あのナデシコ長屋が取り壊されることが決まったときに、
ホウメイが口にした言葉。

あの居心地の良かった船は、あの遺跡を破棄する為に自分たちで考え、自分たちで判断し、
自分たちの意思で捨てはず。

無人となったあの船が外宇宙へ向かうのを、切り離した第二船体の艦橋から見送ったそのとき、
多くのことは静かに言葉無く終わりを告げていた。

だから、いまにしてみればナデシコ長屋は、そのモラトリアムの余韻でしかなかった。

いつしか余韻は消え、やがてみんなはそれぞれに自分の居場所を見つけ始めていった。
それはアキトにしても同じこと。
だから、自然とかつての仲間とも会う機会は減っていった。
 
変わらない人間はいない。
立ち止まる事も出来ない。
ただ出来るのは、時々、昔を振り返って懐かしむことぐらいだった。
あの頃が懐かしい、と。

でも、ユリカは変わっていなかった。
何もかもが、あの頃のまま。
そのことを、いま改めて思い知らされた。
でも、もう、それではいけないのだ。
 

初めから声を荒げていたわけではない。
努めて冷静に、なるべく理知的に、感情を抑えてアキトはユリカに自分の考えを説明した。

でも、その言葉はユリカに届かなかった。
アキトの言葉も拙かったのかもしれないが、どうしても、もどかしさが募る。

でも、何度も何度も同じ説明を繰り返した。
根気良く自分の言葉で自分の考えを説明した。
まるで、小さな子供に言い聞かせるように説明を繰り返した。

けれど帰ってくる返答はみな、20歳越えた大人とは思えない甘やかされて育った人間の本質を
覗かせているものばかり。

都合よく解釈される言葉は、新たな曲解を生み、やがて論点自体がずれはじめる。
その論点を元に戻す為に、また最初から説明を繰り返すという行為を延々と繰り返す。
良く判らない焦燥感にアキトは囚われた。

いい加減に疲れた。
なんで寝ているところをたたき起こされて、朝っぱらからこんな不毛な会話をしなければならないのか?
肉体的な、そして精神的な疲労が二乗してアキトに圧し掛かる。
そんなときに、昔から聞かされ続けたあの言葉を聞かされた。

「うんうん判ってるよ、だからアキトは私が好きー」

その言葉を聞いたとき、自分の頭のどこかでぶちっと、何かの切れる物理的な音をアキトは確かに聞いた。
本当に、そういう音が聞こえるのだと、アキトは今日初めて知った。
途端に、蓄積した不満が、湧き上がる怒りが喉を伝って言葉となって吐き出される。

「お前なんか大っ嫌いだ!!」

決壊した堤防のように、あるいは貯水容量を超え放水するダムのように、
積もりに積もった鬱積が堰を切ったようにあふれ出す。

実際、『アキトは私が好き』だろうが、『私はアキトが好き』だろうがどうでも良くなっていた。
好きかもしれない、いや、十歩ゆずって好きだと仮定しよう。
でもその感情は幼馴染だということも含んでの好きではないのか?
女性として好きかと問われれば、まだその想いは途上でしかなく、恋する、ましてや愛するといった
感情を自分はユリカに対して懐いているのか?
アキトの思考のどこかが、いままでのユリカへ向けていた感情を、そう冷静に判断する。

が、瞬く間に怒りの熱量が冷静さを奪い取った。
文字どうり売り言葉が買い言葉となり、あとはもう二人とも、感情に任せ怒鳴りあう盛大な痴話喧嘩に発展した。
 

それをとめたのは、以外にも、今の今まで傍観者であり観衆だったジュン。
客観的に誰が聞いても、いままでの会話と行為には明らかにユリカに非がある。

それにアキトの言った事は、本当なら自分がユリカに言わなければいけないことだった。
なのに、言うべきことも言わず、そして言えずにガムテープを手に取って荷物の梱包を手伝い、
車で送迎してしまっていた自分の行為をジュンは恥じた。

なにより、ユリカのことを考えるのなら、その行為を諌めなければいけないのに。

ユリカの気持ちが自分に向くことは無いと理解していても、それでもジュンはユリカが好きだった。
幼い頃に芽生え育んで、いまも伝えられずにいる恋心があった。
そしてその想いは変わらず、いまでも彼女に恋していた。
 
でも好きだからこそ、止めるべきだった。
たとえその結果、嫌われたとしても止めるべきだったのだ。

でも、まだ遅くは無かった。
だから、ジュンはユリカを止めに入った。
勇気を持ってユリカを止めようとした。

言葉では埒が明かない、実力行使で表へ連れ出そうとユリカを抱えあげたとき、
その手にふくよかな感触を覚えたが、それは、まず間違いなく意図しない事故だろう。
彼にそんな度胸は、ない。

「ジュンくんのえっちー!!」

代償として、ぶたれ、蹴られ、引っかかれ、噛み付かれて生傷を多量に負うジュン。
だが、それは名誉の負傷だ。

それは、けして揺るがぬ信念を持ち、誇りを持って責務を果たす男の姿だ。
きわめて特殊な性癖を持つ同性であれば、思わず漢惚れする姿だった。
 


ユリカの叫びが、ドップラー現象のように遠ざかっていく中で、アキトは深いため息を付いた。
旗振って送り出したい気分だ。

疲れた。
疲労が容赦なく身体を支配する。
早く暖かな布団に包まれて惰眠をむさぼりたい。
その欲望がアキトを支配する。

「アキトさん、どうぞ」

水の注がれたコップを差し出すのはルリ。
気が付かなかったが、ジュンがユリカに暴行を受け始めた頃、部屋にはいって水を汲んできたらしい。
アキトは受け取ったコップに口をつけ、喉を鳴らして飲み干した。
 
冬の冷たい水道水が声を荒げて枯れた喉を潤す。
美味しかった。
ただの水道水なのに、まるで甘露のように美味だった。
この一杯の水を得る為に、馬の鞍と交換しても良いくらいだ。

「でも、鍵ぐらいかけておかないと無用心ですよ。
アキトさんお金持ちなんですから」
 
・・・・・・たしかに驚いた。
寝ていたらルリたちが部屋に上がりこんでいたのだから。
それから、全員を廊下に追い出して先ほどの痴話喧嘩へと到る。
 
「・・・・・・そうする」

たしかにお金持ちだ。
現在のアキトの総資産は日本円にして8桁、四捨五入すれば9桁もあるのだから。

この資産の内訳は、両親の金銭的な遺産と、彼が火星市民であったために支払われる新木連からの謝罪の見舞金、
および新地球連合から火星市民に保障される資産保障、生活補助金、及びナデシコ乗船時の給金が主となっている。
ほかにもごちゃごちゃとした理由があるが、それらが積み重なってこうなった。
 
火星に存在する銀行はすべからず地球側にある銀行の支店であり、データ上に登録した記録が残っていれば
同系列の銀行から同額の貯蓄は保証される。
このことによって、成人したアキトは両親の遺産を受け取ることできた。

また、一時、アキトに多額の借金が発生したように思えるが、あれは、当時生体跳躍が可能な事が確認されていた
アキトの身柄を拘束する為にネルガルが捏造したものだ。

専門の部署を有する企業と言うものは、たとえ中途採用であっても保険契約の範囲外となるような
ずさんな契約を交わすことはありえない。
そんな事をすれば、まず確実に企業全体に対する信用問題へと発生する。

実際、アキトの給料明細がその事を如実に物語っていた。
給料より天引きされる際に記入される各種保険の内訳には、はっきりとパイロット業務に関する
保険契約が結ばれている事が記載されていたのだから。

もっとも、当時、仮にアキトがその事を引き合いに出したとしても、
ネルガルは二手、三手のからめ手を用意していたのだが、結局、それらが要いられることはなかった。

欠落した責任感。
戦争中にナデシコが地球の関係各位にかなりの損害を与えていたその事実を、昔の自分は、いや、自分たちは、
知ろうともせず、判ろうともしなかった。
つまりは、モラトリアムだったとは、そういうことだ。

部屋に戻って、空になったコップを流し台に置く。
それから廊下に戻ると、疲労した身体に鞭打って、ぽつんと取り残された2つの巨大なスーツケースの
取っ手を掴み、持ち上げようとする。

が・・・・・・重かった。
やたらと重かった。

「ルリちゃん、これ何入ってるの」

「ユリカさんの洋服とか化粧品とかです」

このケースの中のものだけで、どれ程の質量があるのだろう。
それらのユリカの私物に、狭い部屋が侵食されていく光景が思い浮かぶ。

もう、思考することを破棄した。
足を動かし、いまはただ、このケースを外に持ち出す事だけに専念する。
 
「ごめんなさい」

そんなアキトの背にかけられた言葉は、ルリの謝罪の言葉。
アキトが足を止めて振り向いたとき、ルリは俯いていた。
だから、その表情をうかがい知ることはできなかったけれど、ルリは申し訳なさそうに言葉を続ける。
 
「ごめんなさい、こうなる前に、わたしもユリカさんを止めるべきでした」

どこかでルリもユリカと似たような事を考えていたのかもしれない。
けれど、それは間違いなくアキトに負担を懸ける行為でしかなかった。
そのことに、いまさらながらに気付かされる。

たしかに金銭的にはアキトは裕福だ。
でも、わざわざボロアパートに住むには理由がある。

何時か自分の店を持つ。
それは料理人であれば誰もが懐く夢。
でもまず、真摯に料理と向き合って、驕る事無く精進したい。
いつになるか判らないけれど、自分の店を持つときは、自分自身を納得させてから。
アキトはそう決めていた。
だから、そのときの為の資金として、いまは遺産には手を付けたくなかった。
自然といま現在の稼ぎから逆算して、生活費を切り詰めた結果がここにある。

「あ、いや、ルリちゃん。その、気にすることないからさ」

そう言って、アキトは優しく笑う。
その笑顔を見つめ、そしてルリもまた笑みを浮かべる。
そう言ってくれて、本当に嬉しかったから。

お人よしかもしれない。
でも、ユリカとの喧嘩の理由だって、自分のことを思ってくれてのことだった。
アキトの笑顔をみつめていると、胸の奥に何か温かいものが満たされていく。
その感情が何であるのか、いまのルリには判らなかったけれど、けっして不快ではなかった。
それは、むしろ心地よかった。

いつしか二人して笑っていた。
ささくれ立っていたアキトの心も、不思議なくらい落ち着いていった。
ただそれだけのことなのに不思議だった。
本当に不思議だった。


重たい2つのスーツケースを運びながら、階段を下りて玄関に近づいた頃、表が騒がしい事に二人は気が付いた。
玄関を開けると、まず警官がいた。
パトランプを灯らせて、パトカーも何台か止まっていた。
いくら早朝とはいえ、あの騒ぎのままに表に出れば、それはそれで当然の結果かもしれない。
つまり、通報されたのだ。

人ごみの中に、涙で目を潤ませ、頬を膨らませ、唇を尖らせたユリカの姿が見えた。
その姿を見て可愛らしいと思うか、いい年をしてと思うかは個人の酌量だ。

対してジュンは壮絶な姿だった。
服のあちらこちらが破れて、流れ滴る血が、凍てつく冬の朝の路面に滴っていた。
明らかに、ユリカを連れ出していくときよりも酷くなっていた。
受けた暴行の壮絶さがうかがい知れた。
 

アキトは空を仰いだ。
空の色はもう明け方の色。
一呼吸ごとに、朝の清廉な空気が臓腑に満たされる。
それでも、気分は晴れなかった。
むしろ最悪だった。
お騒がせしたご近所へ、謝罪のために一軒一軒に頭を下げて回るのかと思うと泣きたくなってくる。

「ルリちゃん、今後遊びに来るときは、出来ればルリちゃん一人で来てくれると嬉しい」

「・・・・・・そうします」

それは和平条約締結後に迎える初めての冬の、ある朝の出来事だった。












アキトの家はウリバタケ経由のつてで借りている。
だから、今回の騒動はいずれかつてのクルーにも伝わるだろうと覚悟していた。
下世話な噂話のネタにされるのも、類推を口にされるのも不愉快だったが、そのあたりは半ばあきらめてる。
達観とも違う、あきらめに似た境地をもって、いずれ来るであろうその日を待った。

ただ、意外だったのは、最初にそのことを口にしてきたのがイネスであったことだろうか。
それも、バイオレンスなことが起こったその日の晩の屋台の営業中に。

ネタを明かせば何のことはない。
現在もネルガルからは、旧ナデシコクルーに護衛を兼ねた監視が行われていた為だ。
これらの活動は、ネルガル会長室警備部のなかでも主に諜報活動、秘密工作に従事する警備部第3課の、
とりわけ第3課付分室が主立って行っている。

もちろんクルーすべてに護衛が付いているわけではない。
その中でも優先順位が高いのはアキト、イネス、ルリ、ユリカ、それにチガサキ・シティでハルカミナトと
同居する白鳥ユキナぐらいだろう。

ただ、アキトが自分たちが護衛されていたという事を知るのは、もう暫く後のことだったが。

そして優先順位の高い三人の起こした事件は、瞬く間に報告書というかたちになって提出され、
ネルガルの会長経由で事の詳細を聞かされたというわけだ。
 
 
「ユリカさんらしいわね」

笑いながらイネスは、懐かしむように言う。
イネスだけではない。
後日、アキトの屋台の常連の中で顛末を知るナデシコのクルーであった人間も、異口同音で同じ事を言う。

でも、らしい行動の結果はどうだったのだろう?
ナデシコなら許されたであろう行動も、一般社会では、けして許させるはずのない行為。
結局ユリカの起こした行為はナデシコでの生活の異質さを露骨に浮き上がらせただけ。

一定のルールはたしかに、あった。
けれど、ルールよりも自由な意志と行動の方が評価される閉鎖された社会。
そんな都合の良い理想郷がナデシコだっだ。
 
あのころを知る者にとって見れば、ユリカのその行為は過去への道しるべを照らす灯火のようなもの。
ユリカらしい、艦長らしい、とみんなは口にして懐かしむ。
そう、昔はいつだって古き良き時代だ。

でも、アキトは思う。
そして考える。 
ユリカにとって、本当にそれは良いことなのか、と。
いつしか、その想いが頭から離れなくなっていた。
 
 


ユリカの強襲より数日、以外にも平穏な日々が続いていた。
ユリカのことだから、再びに強襲を仕掛けるのかと思い、寝る時はきちんと鍵を掛けるように習慣付けたが、
結局、屋台にも家にもユリカが来る事はなかった。

夜討ち朝駆け戦の基本。 
それを実践するかのような、強襲から始まり暴行傷害でしめるというバイオレンスな朝から数えること
5日目の午後、その後の顛末をアキトは訪ねてきたルリから聞かされた。

アキトの家には固定電話や、戦後急速に普及し続ている市販のコミュニケもない。
そんなわけで、連絡の取り様が無いためルリがご足労して足を運んだわけだ。

「そっか、寒いのにごめんね、ルリちゃん」

「いえ、別にかまいません」

そう言って、アキトの入れてくれたコーヒーを暖かそうにすする。
ただのインスタントだけれど、ルリにとっては何故だか飛び切り美味しく感じられた。
自然とやさしい笑みが浮かぶ。
ただ、質素な部屋でアキトと二人して一緒にいるだけ。
それだけなのに嬉しくて、そして楽しかった。

古株のお手伝いさんに聞いたところ、これまでは、娘のわがままを父が許す形だったとかで、
二人は喧嘩らしい喧嘩をしたことがないらしい。
つまりミスマル親子にとって、それが父と娘の初めての親子喧嘩だったということらしい。

自分の無理を押し通して、相手の道理を引っ込ませる。
ユリカの『自分らしく』や『私らしく』の原点が、ここにあった。
いつしかそれが、ユリカにとってはごく当たり前のことになっていたのだろう。
 
ともかく、だ。
何でもいい、何でもいいから、お願いだから、いまからでも遅くないと思うから、もちょっと、
きちんと娘を躾けてほしいと、昔っから、いろいろと苦労させられたアキトは思う。 
本心から、切実にそう思う。

いい年をして、家出騒動のあげく、結果、警察沙汰になれば、大抵の親は怒るだろう。
それは、日頃から娘に甘いミスマル父も例外ではなかった。
おまけに今回、暴行傷害に建築物不法侵入の余罪も付いた。

現在のユリカは軍に復帰していて、後方勤務の職についている現職の軍人だ。
そのため今回の不祥事の責任を取らされて、現在は自宅謹慎中だった。

もっとも、今回のユリカの処分については罷免処分が妥当との声も多かったのも事実。
これは、ユリカが大戦中に味方側だった地球側にも多大な迷惑を被らせたナデシコの艦長であった
という私的な意見も多分に絡んでいたためだ。

そのため今回の娘の不祥事を重く見たミスマル父は、関係各所に赴いて頭を下げて回り、
宇宙軍内の警護専門部署を使って、娘を事実上24時間完全監視管理下に置いた。
つまり事実上の自宅軟禁だ。

公私混同もはなはだしいが、その結果が知らぬ間に、アキトに多大な精神的安息を与えてくれていた。
当然、外出等も規制されているわけだからアキトの家にも屋台にも来れるはずはない。

出来れば、もっと早くに知っておきたかった。
そうすれば、この数日怯えて暮らす必要はなかったのに。
理不尽だとわかっていても、そう思うアキトだった。

反面、ミスマル親娘の険悪さは加速度的に悪化の一途をたどっていたが、それは親娘間の問題。
矛の収め方を知る、知らないはミスマル父娘の問題だ。
部外者が口を挟める問題ではないし、なにより関わりたくも無い。


聞き終わってから、アキトはポツリ、ポツリと自分の考えをルリに向け語りだした。
あの日以来、ずっと考え続けていたことを。

それは、まだ拙く、良く整理されてもいない意見だった。
でも、誤魔化しのない、偽りのない、感情に任せただけでない、いまのアキト本当の気持ちが
言葉にされていた。

だから、ルリはアキトの言葉に最後まで耳を傾けた。

 
ユリカが好きだと、あの時は確かにそう言った。
でも、あのときは流されての選択だったのかもしれない。
それに、”好き”と言う言葉は”恋している”そして”愛している”とは、決して同意ではない。

それはユリカにも言えた。
ユリカがアキトへと向ける気持ちも、想いもきっと変わってはいないのだろう。
『私はアキトが好き』と、そう言ってくれたこともある。
でも、いまでも聞かされる言葉の大半は『アキトは私が好き』のままだった。
 
好きだというその気持ちが間違っているとは思わない。
でも、もしも”好き”という言葉の意味を取り違えていたら、誤解したままであったのなら?
だとしたら、間違いに間違いを重ねても、それはきっと本当にはならない。
 
だから、いまの自分の本当の気持ちを、自分自身もう一度確かめたかった。
時間をかけて、距離を置いて、それから頭を冷やして。

身勝手かもしれない。
いや、多分、身勝手なのだろう。
だから、恨んでくれてもいいし、憎まれたっていい。
でも、曖昧な気持ちのままでいる方が、いまのアキトにはずっと嫌だった。

それにユリカにも気が付いてほしかった。
好きだという言葉で誤魔化さずに考えてほしかった。
いまの二人の関係は、どこかが一方的に凭れ掛かっているような関係だったから。
それは、ユリカがアキトの家に転がり込もうとした行為が如実に表していた。

「だから、ユリカとはしばらくは会わないことにする」

例えその結果によって別れることになったとしても、どこかを偽って、目を逸らして、
誤解を重ね続けるよりは、ずっと良い。
間違っていたとして、それに気が付けたのなら、それは間違いを正す事の出来る機会なのだから。
 
 

「でも、ユリカさんには、それをどう伝えるんですか?」

アキトは言葉につまる。
そう、それこそが最大の難関であった。

直接に会って伝えるのは論外だ。
きっと、この前の繰り返しになるから。
それはコミュニケ電話とかも駄目なことを意味していた。

ルリを間に立てて、伝言・・・・・・いや、それは流石に論外だ。
アキトは知恵を絞って考えた。
で、出てきた答えが。
 
「て、手紙とかどうだろ?ほら、文章にすれば意外と」

「無駄だと思いますよ」

希望的観測は現実的、かつ無慈悲な一撃によって切り伏せられた。
でも、確かにそのとうりだろう。
きっと、いまよりも、もっと酷く曲解されかねない。
それは困る。
非常に困る。
そしたら洒落にならないくらい困った事になる。

アキトは頭を抱えた。
そして泣きたくなった。 
自分自身が気持ちを決めても、相手に正しく伝える術がない。
そのことが事実である分、余計に悲しい。

ユリカ相手に誤解も曲解もさせずに理解させるくらいなら、動物に芸を教える方が、ずっと楽かもしれない。 
聞き様によっては凄まじく失礼な言い分だが、幼少時からの付き合いのあるアキトには、決して誇張では済まない
紛れもない事実だからだ。

コトコトと煮込まれるスープの香りに満たされる部屋で、悶々と頭を抱えるアキトと、
マグカップを手にその姿を見つめ優しく微笑むルリ。
その奇妙な構図は、部屋に西日が差し込むまで続いた。



 
「ごめんねルリちゃん、遅くまで引き止めちゃって」

「いいですよ別に。わたしも楽しかったですし」

冬の日暮れは早く、表に出ると、もう頭上には夜の帳が落ち始めていた。
アキトはルリのためにタクシーを拾おうとしたが、それはルリに止められた。
でも、暗くなってから女の子を一人で帰らせるよりはずっと安心だったから、何とか説き伏せた。

交渉時間は約5分ほど。
いろんな意味でユリカもこのくらい聞き分けが良ければいいのに、と冗談抜きで切実に願うアキトだった。

ルリはアキトの懐具合を気にして遠慮したのだが、ここからミスマル邸までは1万円程度。
・・・・・・大丈夫、問題ない、一日の売り上げのたった半分程度だ。
今日は屋台出すのが遅くなるけれど、明日からまたがんばろう。
しばらくはユリカの襲来も無いようだし、商売に専念できる。

それは問題の先送りに他ならなかったけれど、問題の一時棚上げと逃げることは、アキトの十八番。

二人は連れ立ってタクシーを拾おうとアパートから出た。
さすがに日が暮れると風も冷たくなる。
だからだろうか、二人は自然と寄り添って歩いていた。
時折交わす言葉に、どちらともなく笑みを浮かべる二人。
 
まるで仲睦まじい兄妹のような、そんな微笑ましい二人を呼び止める声があったのは、
アパートから出てすぐのこと。
歩く二人の脇を通り過ぎた車が、ハザードを灯らせながら停車した。
 
「こんばんは、アキト君、ルリちゃん」

かけられた声に振り返ってみれば、停車したその車の後部座席のドアが開けられて、
趣味の良いパンツスーツ姿のイネス・フレサンジュが降り立っていた。
よく見れば運転席にはゴート・ホーリーの姿も見えた。

「あ、イネスさん」

「イネスさん、こんばんは」
 
「はい、こんばんわ。珍しいツーショットね、アキト君とルリちゃんの二人だけなんて。
ひょっとしてデートかしら?」

からかわれている。
でも、そう解っていても、ルリは自分の頬が赤くなるのを防げなかった。
普段ならきっと、不愉快に感じるであろうからかい。
でも、なぜかいま、嫌に感じることはなかった。
むしろ、そう言われることに不思議と嬉しささえ感じてしまっていた。
 
慌てふためいて、アキトが弁解する。
その姿に、どこか不満げな表情を浮かべてしまうルリ。
そんな二人を楽しげに、そして優しい眼差しで見つめるイネス。
ただそれだけなのに、その場所が暖かな空気に包まれた。

「で、どうしたんですか?こんなとこで会うなんて」

「アキト君に用事があったのよ。
で、いつも屋台を出している所にいったんだけど・・・・・・行き違いにならなくてよかったわ」

なるほど。
普段のこの時間なら、アキトはもういつもの場所で屋台を出している時間。
けれど、今日はいろいろと考えていて屋台の準備が遅くなってしまっていたから。

そのことで、アキトはイネスに妙案を求めてユリカとの近況を話した。
途中、くしゅん、と可愛らしいルリのくしゃみに、寒空の下で立ち話は何だからと、
イネスは二人を車の中へ誘う。
自分の話も終わったら、ルリを送ることを約束して。
かくしてアキトはタクシー代を・・・・・・いや、それはいい。

運転席のゴートに挨拶してから、後部座席に3人で座る。
ゴートはそれを見届けた後、前席と後部座席を隔てるプライバシーガラスを迫り上げた。
この車は、そういう特殊装備が搭載されている高級車なのだろう。

車内の適度に効いたヒータの暖かさに癒されながら、いまの自分のユリカに対する気持ちも説明した。
二度目だからだろうか、昼間にルリに話したときよりも、なるべく整理出来たように思う。
 
語り終わって、アキトはため息をつく。
自分で言葉にする度に、どこかでユリカとの関係に疲れを感じてしまう自分がいることを自覚する。
芽生えた疑問は不安を糧に、アキトが思うよりも、ずっと大きく成長してしまっていた。
 

最大の問題点は、ユリカを相手に誤解も曲解もさせずに理解させる事が出来るかどうか、だった。
その最大の問題点は、同時に最大の難関でもあり、博識なるイネスにしても即座に返答可能な問題ではなかった。
 
相変わらず答えは出ないままだったけれど、それでもルリやイネスに自分の考えを聞いてもらえて、
幾分だがアキトの気持ちは穏やかだった。
一人で溜め込んで考え続けるよりも、ずっと気が楽になっていた。
でも、後にしてみれば、アキトの気持ちはこのときには、もう決まっていたのかもしれない。

誰かに話せて、聞いてもらって、客観的な意見を求めるとき。
そんなときは、もう、自分の中で答えが出ていることが多い。
ただ、誰かに自分の考えを肯定してもらいたくて、その背を押してもらいたいときなのだろう。
だから、後にしてみればアキトの気持ちは、このときにはもう決まっていた。
 
 
 
今度はイネスのアキトへの用事を済ませる番だった。
ルリが一緒にいてくれたことは僥倖だった。
もしかしたらルリの協力も必要となるかもしれないのだから。

イネスはバックの中から、数枚の写真を取り出すとアキトとルリに手渡した。
それを見せることがイネスの用事だった。
それは何かの記録映像から直接にプリントアウトしたたであろう写真。
目にした途端、二人は息を飲む。

当然だった。
それには、アキトとルリの良く知る船が写っていたのだから。

宇宙空間だろうか。
周囲には岩礁にも似た小惑星が点在し、白い船を取り巻くように数種類のジン・タイプが
それぞれ数機ずつ展開していた。
この写真はそんな機体のうちの一機からの記録映像をプリントアウトしたものなのだろう。
 
問題はその”白い船”だった。
知っている。
いまでも鮮明に思い出すことのできる、それは大切な思い出の場所。
 
あの遺跡を破棄する為に自分たちで考え、自分たちで判断し、自分たちの意思で外宇宙へと破棄したはずの船。
それは、その”白い船”は”ナデシコ”だった。










匿名の人物からもたらされた情報提供。
イネスはそう言った。
撮影され、そして拿捕されたであろう場所は、火星と木星の中間点にある小惑星帯。
時期は恐らく、木連でクーデタの起こる直前。
イネスはそう付け足した。

 
「それでは、説明しましょう」

そのおなじみの言葉と共に、イネスの説明は始まった。

イネス・フレサンジュの説明は端的で判り易い。
が、それは日常の疑問・質問に関することのみ。
こと専門分野にいたると、その饒舌は留まる事がない。

説明しながら、自らの自説を覆す自説を新たに立てる。
そうすることで、明晰かつ合理的な思考を促進させるのだが、結果、説明しながらこの行為を延々と
繰り返すという悪循環を極まれにだが時々する。

仮説域の出ない考察段階の事象、および推察段階ではそういった悪癖が出る確率が統計学、経験則的に共に高い。
つまりイネスとしては説明のつもりなのだろうが、結果的に自問自答の域を出ないものとなってしまっているのだ。

イネスの説明について、説明が長いとか悪評が聞かれることがあるが、不運にもこういう説明風味の説明を
聞かされた人間の私見なのだろう。
もちろん、論文としてまとめる際には、より整理されたものとなっているし、人に再度説明する機会があれば、
当然より洗礼されていることを忘れずに明記しておく。

そして、幸運にも今回の説明は洗礼された説明のほう。
ただ、イネスの説明はその写真についての説明からは始まらなかった。

イネス・フレサンジュは無駄な説明をしない。
いずれ、その話に結実するのだろうと、アキトもルリも黙って聞いた。

・・・・・・いや、聞くほかなかったのだけど。

「ボゾン・ジャンプには必要不可欠な触媒というものがあるわ。
それが二つのチューリップね。

世間一般では前の戦争とか、最近のヒサゴプラン・プロジェクトの影響もあってチューリップとかが有名だけど、
本来、チューリップとチューリップ・クリスタルとはサイズ的には違っても、ほぼ同質の存在物なのよ。

ま、チューリップ・クリスタル、つまり鉱石っほい”C.C”のほうは戦前、戦中、戦後と秘匿され続けているから
知ってる人は限られてくるんだけどね。
 
ではこの二つを同質と定義する理由はというと、双方大量のエネルギーを供給させる事によって、
物質のボゾン・ジャンプを可能としているからなの。

でも、大きい方のチューリップだとこの程度の説明でも、なんとなくの想像は出来るけれど、鉱石っほい”C.C”だと
その大量のエネルギーは何処から、どのように、どうやって供給する、あるいはされるのかしらね?

まず、チューリップ・クリスタルとは”デバイス”であり同時に転換スイッチでもある事を念頭に置いて
思考しなければいけないの。

現状では、あくまで推測的な仮説だけれど、”C.C”というものは、この構成物質に含まれる高次元存在確率の高さから、
おそらく6次元から10次元に質量の大半を預けている状態の他次元物質の一種と推測できるわ。
 
解りやすく言えば、この物質は稼働中のチューリップ内部で確認される極彩色の空間を圧縮し、結晶化したものと
想像すれば、まあ、問題ないわね。
なにしろ、あの空間も他次元である事は変わりないし、それに唯一、肉眼で観測できる他次元だしね。

さて二人とも、ここまでは理解できるわね」


 
アキトは耐えた。
ルリも耐えた。

『判るか』と、そして『判りません』と、そう言葉にしたかったのだけれど、二人とも耐えた。
第一、自分で『あくまで推測的な仮説』といっている以上、判るわけがないと思う。
そうは思っても、二人とも口には決して出さなかった。

けれど後にして思えば、本当にイネスの推察どうりだった。
見方を変えれば”C.C”とは、とてつもない新エネルギーを秘めた原石ともいえたのだ。

この時期、ネルガルのボゾン・ジャンプに関連する開発品目の中に、”C.C”に限りなく近い組成素材と
いうものがある。
そして、それこそが本当の意味でボゾン・ジャンプに関する革新的な発明だったのだけれど、アキトやルリ、
それに世間がそのことをを知るのは、もう少し後の時代のこと。

だから、いまこのときはまだ、イネス・フレサンジュ女史の提唱する『実証されざる推測的な一つの仮説』でしかなかった。
 
 
イネスの説明は続く。

「さて、次にボゾン・ジャンプのプロセスのおさらいよ。

元来ボゾン・ジャンプとは、このチューリップないし”C.C”と、”A級ジャンパーのみの持つ精神感応”、
それに”火星の極冠遺跡”との、この3つによって成立する時間移動のこと。

まず極冠遺跡なんだけど、遺跡には時間的、および空間的な概念は存在し得ずに、そのため知ってのように
物理的、あるいは空間的な破壊は一切できないの。

だから遺跡と時空演算ユニットを切り離してしまった今ても、ボゾン・ジャンプが使用不能になるようなことはなく、
いままでどうりにチューリップの使用も含めてボゾン・ジャンプは使用することが出来るんだけどね。

次にA級ジャンパーのみの持つ精神感応というものなんだけど、これは読んで字のごとくよ。
 
この精神感応でA級ジャンパーはチューリップ・クリスタル、つまり”C.C”を任意に活性化させるか、
あるいは自壊作用を引き起こさせているかして、その際に生じる高次元のエネルギーを引き出す、
もしくは復元させるかして単独でジャンプに必要な”力場の繭”を自力で形成しているの。

あ、この高次元のエネルギーって概念は、相転移エンジンの理論を思い浮かべると理解しやすいかしらね。

つまり、A級ジャンパーとは機械的な技法、つまりチューリップとかの大掛かりな機材を要いずとも、
ただ一つの”C.C”を手にする事で、単独でジャンプに必要な”力場の繭”を形成する事が出来る
という稀有な存在というもの。

A級ジャンパーの持つ精神感応は”C.C”という触媒が機能した際に初めて意味を成し、
そして、この状態となって、ジャンパーは初めて遺跡へとイメージングを伝達、あくまで一方的だけど
させることが可能となるの。

誤解しがちだけど、精神感応ってのは常時接続されているわけではないわ。
”C.C”がジャンプ対象者の周りにあるとか、あるいはジャンプ対象者がチューリップの中にいるとかの、
そういう特定の条件下でのみ機能するものなのよ。

で、結果、任意の空間へと、あるいは過去、または限りなく近い未来へのジャンプを可能としているんだけれど、
未来とは非決定論的な『自由意志や量子力学的偶然の為、部分的にしか決定されていない』と定義できる為、
数少ない観測例では、観測者はすべて過去へと、その誤差は2週間前から20年前と幅広いんだけれど戻っているわね。
 
これがジャンパーと呼ばれる資質の中でも、A級ジャンパーのみが持つ資格。
その通称を、現在では”ナチュラル”とカテゴリさせているわ

ただ、チューリップに突入したナデシコが例外的に約8ヶ月後の未来に出現しているけれど、これは例外的かつ
特例的な事象ね。

これって単独での跳躍の範疇には入らないし」


アキトやイネス、それにユリカなど胎児期あるいは幼年期に火星で過ごしていた人間が、
この恩恵を受けていることが確認されている。

原因としては、テラフォーミング初期から火星全域に散布され、現在も機能している大気調整用ナノマシンが
遺跡内部に入った事による結果と推測されている。
人の侵入を阻む、分厚い氷壁や遺跡の多重展開された堅牢なディストーション・フィールドも
ナノ単位であればいかなる物質であっても透過してしまうために起こった現象だ。
これにより、ナノマシン本来の用途機能が一部書き換えられた、あるいは付加されたと推測されているが、
火星全土からナノマシンをサンプルとして採取し調べても、オリジナルとの差異を確認する事が出来なかったために
真相はいま現在も不明のまま。

火星古代人が遺跡ユニットへのイメージ伝送にも、IFSと似た理論の技術を用いていることを
示唆しているのかもしれないが、これも、いまはまだ推論でしかない。

さて、基本的にナノマシンは体内に取り込んでも一定期間を経過すると体外へと排出される設計となっている。
そのため、この変化したナノマシンを胎児期から幼年期にかけての成長期間に日常的に接するという事は、
自然と吸収と排出とを繰り返す事になり、その結果、成長段階で肉体等に自然とボソンジャンプに対する最適化が
施されるのだと思われる。

要は、A級ジャンパーとは遺伝子レベルで遺跡の干渉を受けた者たちの総称と考えても問題はない。

 

「現在、規格化されたジャンパーのクラスは3種類。

まず、ただジャンプに耐えられるだけのC級ジャンパー。
そして”C.C”の代わりに、チューリップとかの大掛かりな機材を用いて、一定の条件下でのみジャンプの
ナビゲートを可能とするのがB級ジャンパー。

これらはA級ジャンパーへの”ナチュラル”との呼称と区別するために、その通称を”コーディネート”と
呼称されることも多いわね」



普通の人間を生体ボソン・ジャンプに対応させるという技術は、この前の戦争後期に木蓮の
優人部隊において使用されている完成された技術。

倫理的問題を別にすれば、戦後である現在はナノマシン処理を併用することによって、より洗礼され簡易化されて
確立化した技術だ。

基本的にC級からB級へのライセンス・アップは可能だが、現状人為的に形成できるジャンパーの限界点が、
現在はこのB級までとなっている。

そしてA級ジャンパー同士の子供であっても、胎児期や幼年期という期間を火星大気内ですごさなければ、
ただ、ジャンプに耐えられるだけの人間にしかならない。

当たり前だが、”コーディネート”に対するようなナノマシン処理等の行為を、新たに”ナチュラル”に対して
施しても、その行為は一切の意味を持たない。
いかなる調整用のナノマシンをA級ジャンパーに投与しても、初めから完成されているA級ジャンパーは
それ以上の、あるいはそれ以外にもなるわけではないのだから。

 
ジャンパー処理をしていない常人とA級ジャンパー、その両者を遺伝子領域のレベルで比べてみても、
一切の差異は見受けられないことをまず理解しなければいけない。
逆に、この段階で手を加えられたと解るのが”コーディネート”された人工のジャンパーだ。

それでも、肉体的な部分、つまりジャンプに対する耐性という点に特化して見れば
”ナチュラル”と”コーディネート”そのどちらを比較したとしても、一切の相違は無いし出ない。

言い換えれば、違いはそれ以外の部分に存在する。
なら、A級ジャンパーと言う存在は何が違うのだろうか?
 

答えは『ボソンジャンプのプロセスのおさらい』で説明された ”A級ジャンパーのみの持つ精神感応”だ。
恐らく、火星大気内のナノマシンの吸収と排出を繰り返しながら成長するうちに、脳内に形成されるのであろう
その器官が、特定条件下のみでだが遺跡の演算ユニットに識別できるようになっているのだろう。

それこそが、A級とB級以下を隔てる差異だ。
きっとわずかな、けれど大きなその差異を埋めようとするときに、人はどれほど傲慢になれるのだろうか。
そして、残酷になれるのだろうか。

イネスはそこで、説明の言葉をいったん止める。
アキトを見つめる理知的な青い瞳が、不意に揺れる。
前振りはここで終わる。
そして、これからが本題。
 

「・・・・・・ボソンジャンプに関する条約が制定されたとき、認定されたジャンパーが何人いたか覚えてる?」

「えっと、16,7・・・・・・」

「制定されたころは20人です。いまは、もう少し増えていたと思いますけど」

ルリが訂正を加える。

「ええ、そう・・・・・・20人よ」

20人、だった。
でも、それはもう昔の話。

いま、条約が制定された当初に認定されたジャンパーの何人かは、死亡あるいは行方不明となっていた。
日常的な観点から見れば、その死者、失踪者の数は別段に目を引くものではない。
けれどA級ジャンパーというカテゴリに括れば、それは異常な数となる。
でも、それだけではまだ、ただの点。

けれどいま、点と点を結ぶ糸がある。
廃棄したはずのナデシコと、それにその中にあるもの、つまり遺跡のコア。
それらを、点を線で結ぶと見えてくるものがあった。
 
戦争は終わった。
誰もが、そう思っていた。
でも、戦争は終わってはいなかった。
それが事実だった。











蜥蜴戦争の中期、相転移エンジン搭載艦と共に戦線へ投入されて以降、瞬く間に地球連合軍の兵器配備状況を変え、
同時に従来の機動兵器の概念を刷新し、新たな兵器体系を確立した機体がある。
それがエステバリスだ。

本来、エステバリスとは機体名ではなくひとつの兵器体系の総称であるのだが、そういうお話は
おっきなお兄さん方や専門的職種の方々以外には意味がないので割愛。

大戦中より運用され続けてきたエステバリスは、戦争後期から新型のアサルトピットと、実戦データを反映しての
より実践的な改良を加えられた新規開発の0Gフレームを導入し、同時に各部隊の機体は量産型エステバリス2へと
シフトしていく。
そして引き続き使用される量産型エステバリス2は、今年度3月期より発足する地球連合統合平和維持軍の
標準機としての納入も決定されていた。

ただ2199年初頭においては、新地球連合が戦後の復興事業として後押しする”ヒサゴプラン”関連の
重要施設などを中心に配備されるため、それ以外での部隊には、新型アサルトピットのみを供給し、
フレーム等には従来のモデルを継続されて使用されているが、さしたる不具合等の問題は出なかった。

これは新型アサルト・ピットの基本的な規格を従来のものに準拠させることで、前大戦中から使用されている
エステバリス・フレームの資産をそのまま継承可能とした成果であり、ある種、当然の結果だろう。
 
また、メーカー発表ではあるが、従来のフレームを新型アサルト・ピットで運用した場合、
2割近くの向上が認められるとしている。
そのため、機能的には新型フレームに及ばないまでも、体感的にパイロットが下す評価は上々であった。

もっとも、その恩恵を如実に受けたのは現場レベルでの整備士だった。
機体配備変換はきわめてスムーズであり、これがもしエステバリス以前の兵器形態であったのならば、
機種変更に伴う整備上の再教習等で、しばらくの混乱は必至であった事に疑いはない。

そしてこの時期、量産型エステバリス2のロールアウトをもって、大戦時より始まったエステバリスに関する
基本的な開発計画は一応の完結を見せた。

 

さて、木連軍を編入して結成された統合平和維持軍には、必然的にその未知の兵器体系を組み込んでの
運用方法の確立が緊急の課題とされていた。

これは、それまでの地球側の兵器思想を大きく異なっているジン・タイプと呼ばれる兵器群の戦略的価値を
向上させようとしての事だ。

その一方で、最終的には、現在の機動兵器の標準サイズであるエステバリス級を目指したジン・タイプの
ダウンサイジング化も検討されていた。

大戦後期の話だが、木連戦争会議の指導者であり先のクーデターで行方不明となった草壁中将は、
大戦の長期化を想定して小型有人機動兵器の研究開発を指示していた、という逸話もある。
それ程に、当時の木連戦争会議はジン・タイプの発展型よりも地球側のエステバリスなどの
機動兵器に強い関心を抱いていたのだ。

わずか6メートル級の有人兵器という発想自体が、彼らの中には存在していなかったし、
なによりも、大戦後期に確立されたボゾン砲やジン・タイプを用いた跳躍戦術をより有効的に
活用しようとすればそれは、ごく当たり前に結実する思考だった。

もっとも、結果的には小型有人機動兵器の研究開発は頓挫したのだが。
 

忘れてはいけない事がある。
古代火星文明の遺跡プラントのオーバー・テクノロジーに支えられていたとはいえ、基本的に地球圏との交流を
絶っていた木連の持つあらゆる分野の知識および技術というものが、ほぼ一世紀前から停滞し続けていたという事を。

基礎技術は古代火星文明時代のプラントから得られ、その使用法を手探りではあったが解明したとはいえ、
原理を究明し応用技術を育む事など、当時の木連には夢のまた夢であった。

そのため、単独でのボゾン・ジャンプ可能な小型有人機動兵器の登場には終戦を待たなければならず、
そして戦後を迎えるに至ってようやくに、かつては敵と味方であった機体と技術は共存を命じられた姿を
現し始める事となる。

だがそれは、あくまで来世紀の事。
少なくとも2199年初頭において、それらの多くは雛形にもなってはおらず、ボソン・ジャンプ対応型機動兵器が
本格的に歴史へと姿を現すには、まだしばらくの時間を必要としていた。
 
それでもこの時期に、群を抜いた『ボソン・ジャンプ対応型小型有人機動兵器』のアーキ・タイプと呼べるものが
存在していた事も、また事実。

因果にも、それもまた”エステバリス”であった。





 

『ボゾン・ジャンプ対応型有人機動兵器』と聞けば、大戦後期より戦線に投入されたジン・タイプという
機動兵器を思い浮かべる方々も多いだろう。

もっとも、最小全高ですら30メートルを超える機体では、今日、もはや機動兵器というよりも
一人乗りの小型船艦と呼んでも差し支えがないのだが、それでもボゾン・ジャンプ対応型有人機動兵器には
変わりはない。
 
開戦当初からボゾン・ジャンプというものに魅入られていたネルガルもまた、大戦中より機動兵器単体による、
つまりエステバリスを使用したボゾン・ジャンプの研究を進めてきたが、記録ではテンカワアキトが搭乗した際の
小型相転移エンジンを搭載した大型のスタンドアローン・フレームでのみに成功例があった程度だった。
 
大戦中の記録では、この成功以降、テンカワアキトが一切の実験への参加を拒否したために、機動兵器単体による
ボゾン・ジャンプの成功例はこの一度だけとなっていた。
そして終戦を迎える。

戦後に持ち越されたその模索は、高価なスタンドアローン用の月面フレームに代えて、量産型の配備にともない
各基地から回収された従来フレームのうち、その2割近い数をボソン・ジャンプの実験機へと廻し続けた果てに、
ようやくの回答を得て、その可能性を実証するに到った。

 
このアドバンスド・アーキタイプ・エステバリスの驚異的ともいえる点の一つが、ジン・タイプと同等の機能
を約6メートルという全高に収めた点にある。

実質的に『A級ジャンパーを必要とせずに、なおかつエステバリス級機動兵器単体によるボソン・ジャンプが
可能である事』を実証できたのだが、このアーキタイプにしたところで実験室レベルのモデルであり、
実際に現場領域で稼動させるには、まだ多くの問題点を抱えていた。

ただ、、”ナチュラル”なジャンパーを専属のパイロットとしたテスト・モデルではなく、
”コーディネート”されたジャンパーでも安定した運用を可能とした商品化を前提としての試作品であるが故に、
現状に立ちはだかる多くの克服すべき問題点への解決の糸口となっていたことは疑いようもない事実。

そしてそれは、”次世代型”エステバリスの誕生のときでもあった。



その機体、次世代型エステバリスのアーキ・タイプを、いまアキトは見上げていた。

メーカに回収され、外装や内部装備の9割近くにまで手を加えられた末の実験用機材。
けれど一部の装甲と、特徴的な頭部が、かつてアキトが搭乗していた機体の面影を残していた為に、
この機体がかろうじてエステバリスの系列だと判る。

でも、それだけ。
どこかに懐かしさをおぼえても、これは良く似た別の機体。

あの頃の自分の使っていた機体は、ナデシコ格納庫内の整備ハンガーに固定されたまま、
いまも外宇宙へと向かっている・・・・・・はずだった。
ずっと、そう思っていたのに。

近寄って、全体を灰色で塗装された実験機の、その超硬質合成樹脂製の外装に、そっと、手を触れてみる。
その手に宿るは、凍てつく冷たさの感触。
けれど以外のものを、それはアキトにもたらしてはくれない。
少なくとも、いまは。

 
見せられた写真。
聞かされた現状。
そしてそれは、モラトリアムの代償。
あの頃、自分たちが現を抜かしていた『自分らしく』が招いた、結果。
 

アキトへの依頼は、ただ二つ。
この機体、アーキタイプを使ってナデシコ船体へとジャンプして、船体から”scv2027"の端末の回収すること。
そして同時に可能であれば同様の手段を用いて遺跡コア・キューブへも接触して奪取を行う事。
その、ただ二つ。

”scv2027”の端末は各種作業の分散処理を行うとともに、いざという時にはバックアップの役目を果たす。
そのため船体各部に多数配置されており、その内の一つでも回収する事が出来れば、拿捕されて以降の
ナデシコのたどった経緯が判明する。
それは必然として、A級ジャンパーを拉致しているであろう人物、あるいは組織への情報に帰結する事を意味していた。

遺跡コア・キューブに到っては説明は不要だろう。
先の戦争で地球と木連が共に狙っていた火星の遺跡。
ボゾン・ジャンプの、それこそ垂涎の的のブラックボックス。

そこまで行けばアキトにだって、おぼろげに見えてくる。
同郷の人々が巻き込まれた理由が。

行方不明ないし死亡したのは、すべてA級ジャンパーたち。
だだ、アキトやイネスと同世代であり、同時期に火星で生まれるか育つかしただけの、本当にそれだけの人々。

戦前、戦中、戦後を通じて、チューリップ・クリスタルは厳重に管理されている。
だから彼ら彼女たちは、ただの一度も単独でのボゾン・ジャンプをした事は無いし、その機会も無かった。

それでも火星生まれであったと言うだけで、望むと望まずとジャンパー・ライセンスを得てしまった人々。
そしてA級ジャンパーだという、それだけの理由で日常を無理やりに奪われてしまった人たち。

彼ら彼女らには一切の非は無いし、あってはならない。
非は、あのナデシコ奪還時に自分の意思で乗船したナデシコ・クルーたち、一人ひとりにある。
それは目を逸らしてはいけない事実。
そしてこれが、自分たちの『自分らしく』が招いた結果だ。

 

「ずるいよな」

アキトは呟く。
聞かされてしまえば、知ってしまったら、それ以外の選択を選べるはずもない。

無為に過ごしていた偽りの平和の日々。
そんなものは己の知らぬままに、とっくに終わりを告げていた。
もうとっくに終わっていたのだ。

受けるべき罰があり、償うべき贖罪があるのなら、いまがモラトリアムの時代の代価を支払うべきときなのだろう。
だから、アキトは決めた。

たとえそれ以外の選択を選べるはずがなかったとしても。
それが、一時の感情に任せた選択であったとしても。
それでも、アキトは自分で考え、自分で判断し、そして自分で決断した。

そのアキトの背を、ずっとルリは見つめていた。
いつしかルリの傍らにはイネスも立ち、二人は並んで、アキトの背を見続けていた。

やがてアキトは振り返る。
その視線が、ルリとイネスの姿を見つけると、もう、迷いのない足取りで二人に歩み寄る。
そして伝えた。
決意を言葉にして。
 
 
 













チューリップ。
 
それは、二隻以上がセットになって初めて機能する一種の異次元空間ゲートの総称。

入り口にあたる一隻の口、正確には開口部前面の空間に重力波反応が増大した際に出現する位相空間ゲートへと
侵入した物質に対してボソン=フェルミオン変換を行い、出口にあたるもう一隻のゲート直前で物質の再構成、
そして侵入時同様に開口部前面の位相空間ゲートから重力波反応を増大させつつ通常空間へと戻る。

これがチューリップを利用した際のボゾン・ジャンプのプロセスだ。

このボソン=フェルミオン変換はゲート内に侵入した一切の物質に対して、例外なく作用する。
このため、無人艦等の無機物であれば一切の問題はないのだが、これらに生体物質などの有機物が加わると
話が違ってくる。

このチューリップ内部が四次元以上の高次元であることは以前にも述べたが、三次元世界の人間では
四次元以上の高次元を体験することも、同時に生存することも出来ないのだ。

ただ、高出力のディストーション・フィールドを使用し、そのフィールド内にいれば普通の人間であっても
ジャンプは可能であるということはということは、きわめて偶然的ではあったが既に実証確認されていた。
 
遠距離移動や補給という行為をこれ以上ないほどに迅速に行えるこのシステムを、戦争当時は木連側であれ
地球側であれ空間転移システムと捉えていた。

だが、イネス女史によって、実際にはこのシステムが時間移動の手段であると定義され確認されたわけだが、
戦後である現在、面白いことが解っていた。

木連軍側がこのチューリップを使用してのボゾン・ジャンプではジャンプミス、つまりA級ジャンパーのような
過去へ戻るというような事故は一切発生してはいないということだ。

チューリップがボゾン・ジャンプのシステムであることには変わりはないけれど、プラントで製造された
正規のボソンジャンプ『制御ユニット』を使用した場合は、その用途が空間移動に限定されるのかもしれない、
というのがイネス女史の私見。

残念ながら、その仮説を裏付けるほどには『制御ユニット』自体の機能解析は進んではいないために、
真偽は不明のままだったが、多分それが正解なのだろう。


・・・・・・では、ほんの少しだけ、ボゾン・ジャンプと関わりの深い『フェルミオン』と『ボゾン』それと
『超対称性』および『先進波と遅延波』についてもおさらいしておこう。

まずは『フェルミオン』と『ボゾン』と言う言葉から。

自然界のすべての粒子はスピンという運動量をもち、スピンの量子数が半整数の粒子を『フェルミオン』、
整数の粒子を『ボゾン』と呼ぶ。

『フェルミオン』に属する素粒子は、クォーク、レプトンなどの物質を構成する原子の素材であり、
『ボゾン』はこれらフェルミオンの間に相互作用を及ぼす、光子、重力子、グルーオン、ウィークボゾンなどの
ゲージ粒子であるのだが、『フェルミオン』と『ボゾン』、この二つは性質が異なる為に、厳密には区別される。

次に『超対称性』。

まったく異なると思われていた『フェルミオン』と『ボゾン』を相互に変換することが可能な対称性があった。
それが『超対称性』だ。

『フェルミオン』と『ボゾン』は相互に『超対称性粒子』としてのパートナーである存在のために、ボソンジャンプの
基本原理となる『フェルミオン』を『ボゾン』に変換する事が出来ると仮定されてはいたが、それが実証されるには
到ってはいなかった。
だが、イネス・フレサンジュ女史の『ボソン=フェルミオン変換システム』という重要論文の発表を期に
素粒子学は新たなブレイクスルーを迎える事となる。
 
同時期にクリムゾン・グループも『レトロスペクトへの変換方式』を発表し、同グループは後のヒサゴプランの礎と
したのだが、この変換方式自体には疑問を投げかける研究者も多く、フレサンジュ女史の『変換システム』ほどには
評価されているとはいい難かった。

で、『先進波と遅延波』。

電磁波の理論にマクスウェル方程式というものがある。
『先進波』と『遅延波』とは、この方程式から導かれる波動方程式に存在する二つの解を差す。

時間に巡行する波動が『遅延波』、もう一つが時間に逆行する『先進波』。

『先進波』のほとんどは『遅延波』の干渉によって打ち消されるが、部分的には残留するという可能性も指摘されている。
ならばそれは”未来が過去に影響を与えている”という可能性も同時に含む事となり、その仮説は酷く興味深い。


つまるところボゾン・ジャンプの原理とは、まず物体を素粒子である『フェルミオン』に分解し、
『超対称性』によって光子のような速さで進む事の出来る物質、『ボゾン』に変換する事から始まる。
そして物体がこの『ボゾン』の状態となったときに初めて、『遅延波』に干渉されずに時間を逆行する事の出来る
未知の粒子である『レトロスペクト』となる。

ちなみに、この未知の粒子の存在を想定し『レトロスペクト』と命名したのも『ボソン=フェルミオン変換システム』の
提唱者であるイネス・フレサンジュ女史。
以降、このボゾン・ジャンプ研究の黎明期に、女史は多くの研究論文を精力的に発表し、以降の多くの研究の礎を
築き上げるのだが、まあ、それは、もちょっと先の話。
 

・・・・・・さて、話を戻そう。

この『レトロスペクト』となった物体は信じられない速さで過去に進む波動、『先進波』となって時間を遡り、
空間移動にかかった時間を相殺する事で、あたかも瞬時に空間を移動したかのように見せかける、と要約してしまえば
こうなる。

 
通常、3次元に存在する物質を『フェルミオン』に分解し『ボゾン』に変換する事は、A級ジャンパーと呼ばれる
能力者を除いては、チューリップのような大規模な機材を必要としている。
だが、中にはジン・タイプのように単独でボソン・ジャンプをおこなえる機材も、また存在した。

ただし、単独でボソン・ジャンプをおこなえる機材にはある種の制約、つまり単独での跳躍距離がネックとなり
ジン・タイプであれば最大で200メートル程度、間接的にチューリップを使用するボゾン砲と呼ばれるもので
あっても、その射程距離は最大で2km程度でしかない。

これは、安定したボゾン・ジャンプを行うには、機材の性能以上にジャンパーの資質も関係している為だ。

ジン・タイプを例に取れば、搭乗者は現在で言うところのB級ジャンパーと想定しているその為に、
演算ユニットへの情報伝達手段は、すべて機械的な手法で行われていた。

これら”機械的な手法で行われる情報伝達手段”の機材は、プラントにて自動生産される無人戦艦などの
兵器の類には基本的に組み込まれているものであり、物理的に入出口であるゲートとして確立されたチューリップを
使用してのボゾン・ジャンプであるならば、これらで十分に事足りていた。


さて、無人戦艦やジン・タイプに搭載されている”機械的な手法で行われる情報伝達手段”、
つまりボソンジャンプの『制御ユニット』というものは、それ単体でエステバリス並みというほどに
巨大なものだった。

基本的に木連では、ジン・タイプに搭載される相転移エンジンを始めとする一切の機材を、
プラントで自動製造される物を使用しているために、そのままに搭載するほか術はなかったのだが、
それが必然的にジン・タイプの機体の大型化を避けられないものとしてしまってもいた。

そのために、戦後ジン・タイプのダウン・サイジング化、およびボゾン・ジャンプに対応した小型有人機動兵器の
開発を目指すにあたって、この『制御ユニット』の機能解析と構造解析は必然的に急務となった。

ネルガルはこの『制御ユニット』が、ボゾン・ジャンプ時の時空転送の際、移動させる物質のフェルミオン、
ボース粒子変換から物質への再構成を管理する火星遺跡の演算ユニットに信号を送る事が出来る点に着目した。

もっとも、その『制御ユニット』による演算ユニットへの情報伝達精度は、A級ジャンパーに比較するまでもなく
明らかに劣ってはいたが、ネルガルは大量の実験機を消費する事でチャートを作成する事に成功する。

結果、より精度の高い近以値を割り出すことに成功し、ジャンプ時の跳躍距離を一気に最大三キロメートルにまで
拡大させる事にも成功した。

この成功により次世代型エステバリスのアーキタイプは完成したが、同時にまだ多くの問題点も抱えていた。

その一つに、現状では機体をジャンプ状態に持って行く為には、月面フレームに採用されている最小サイズの
相転移エンジンと巨大な制御ユニットを外付けで仮設しなければならなかったことがあげられる。

これは機体の基本フレームに組み込こまれたネルガルが開発したチューリップ・クリスタルに限りなく近い
組成素材の活性化には大量のエネルギー(この場合は電力)を必要としていたためと、制御ユニット自体の
機能解析が完全ではなく、制御ユニット自体の小型化が現状では困難であり、かつ難題であったためだ。

エステバリス単体によるボソンジャンプは可能ではあるが、エステバリス自体が徹底した軽量化と
ぎりぎりの機体強度のせめぎ合いから生みだされたものであるだけに、このような形でエネルギーの受容量を
増やした結果、利点であった機体特性を著しく低下させる事態を招く結果となってしまっていた。

 

もっとも、この種の問題点は想定されている正規のパイロットのB級ジャンパーが運用する場合のみと限られており、
現状のアーキタイプであっても機体を運用するパイロットが、アキトのようなA級ジャンパーであったのなら、
克服すべき問題点は問題点ですらないともいえた。

たとえば、チューリップ・クリスタルを活性化させる際に必要となる大量のエネルギーも、A級ジャンパーであるなら
精神感応により”C.C”を任意に活性化させることができる。

それは”C.C”に自壊作用を引き起こさせ、その際に生じる高次元のエネルギーを引き出す、あるいは復元させる事が
自在に可能であるということを意味していた。

この時点で”C.C”起動用に大量の電力を供給する大掛かりな設備、つまり相転移エンジンを機体に搭載する
必要性はなくなる。

また、最大の問題点である制御ユニットに到っては、より精度の高いA級ジャンパーが搭乗しているのなら搭載の
必要性もなかった。

つまり、機体に積載される”C.C”の搭載量とその消費量の関係からジャンプの回数にこそ制限が付くが、
最大三キロメートルという現状での跳躍限界の枷からも解き放たれる事となる。


また『火星奪還』用の兵器として規格設計されたエステバリスには、開発段階から幾つかの条件が存在していた。
その一つに、『火星ならびに、月施設への強襲を前提とすること』という条件がある。
敵に占拠されたであろう火星施設内での運用を可能とするために、その全高6メートル程度におさえたのだが
その利点が今回も大いに役立つ。

たとえナデシコの船殻が既に解体廃棄されていて、”scv2027”の端末が入手不可能であったとしても、
遺跡のコア・キューブを確保している研究施設の類であれば、それは確実に侵入できるサイズだからだ。
 
推測だが、一遍が3メートル四方の立方体のキューブの搬入と、それらを計測し観測し研究する為の機材とを
搬入する関係上、遺跡のコア・キューブは一定の広さ高さのある規格化された空間に安置する必要性があるはずだった。
ならはアーキタイプという機体は、強襲の際にはパイロットを防護する堅牢な鎧の役目も果たしてくれる。

だから、問題はない。
たとえ未完成機の機体であっても、いまのアキトにはそれで十分だった。
  
テンカワアキトは実戦を潜り抜けたパイロットであると同時に、幾度となくジャンプを経験したことのある、
ただ一人のA級ジャンパーだった。

それに、戦争という条件下、月面フレームを使用して単独のボゾン・ジャンプにより敵有人戦艦を攻撃してしまった
あのときから、ボゾン・ジャンプの軍事的利用価値という可能性を見せ付けてしまったのは、間違いなくアキトだ。

それは彼がボゾン・ジャンプを利用した戦闘の、ただ一人の専門家であることを意味し、同時にそれらの機材の効果的な
運用法を誰よりも熟知していることも意味している。

ならば、遅かれ早かれこの出会いは、必然だったのかもしれない。
望む、望まないは別としてだが。
 
 
 

 






甲冑にも似たパイロット・スーツを着込み、アキトはアーキタイプのシートに着座する。
次いでスーツ肩口の接続プラグを、シート上部に増設されたソケットへと重ね合わせ接続。
これでアキトのジャンプ時の体組織および精神の状態の逐一が機体およびスーツのレコーダに記録される。

最悪の場合は機体を廃棄してアキト一人が単独で帰還すればいいと、そうイネスには言われている。
帰還用にと身に付けている、唯一つの”C.C”があれば、あらゆる状況下からの絶対生還が可能なのが
A級ジャンパーだった。

それでも、機体ごと無事に帰還できたのなら、必然的にこのデータの価値は、今後のアーキタイプ以降の
次世代型エステバリスの開発に大きな一石を投じる事となることは間違いない。
 
ただ、アキト一人が単独で帰還するような状況になった場合でも、機体だけは確実に爆破廃棄するようにとの
念を押されていた。

現状、機密の塊のアーキタイプを、例えわずかな部品であっても残すような真似はできないし、
ネルガルが関わったという痕跡を残すことも出来ない為だ。
そのためアーキタイプの各部には証拠隠滅用の爆薬が大量に仕込まれたいた。

アキトとしても、出来ればそういう状況には陥りたくは無いが、ジャンプ先の状況が不鮮明なため、
そういった最悪ともいえる選択も考慮しなければならない。

ただ、仮にそういった状況になれば、二度目以降の遺跡のコア・キューブ及び”scv2027”の端末の回収には
より困難さを増すことになるし、今後もA級ジャンパーの中から新たな犠牲者を生み出し続けてしまう可能性も
示唆していた。

奇襲強襲が有効なのは、ただの一度だけ。
その一度目で成功させなければ意味は無い。
良くはないと理解していても、どこかで気負ってしまう。


一度、深く息を吸い、IFSコントロール・ボールを握り、システムを立ち上げる。

エステバリスの操縦は、IFS入力によるセミ・オートマチック方式が採用されている。
思考をダイレクトに指示できるIFSは、そのアクセスによるタイムラグの殆ど感知できないという利点があり、
そのため、機体の制御コンピュータ内に登録された大量のモーション・プログラムの中から操縦者の入力した
動作にそうモーションを瞬時に組み合わせることで、あたかも思いどうりに操縦しているように見せていた。

例を出せば、いつぞやヤマダジロウの見せた珍妙な演舞も、登録されたモーションを組み合わせての動作となる。
頭で考えたとうりに動くわけではなく、それに類する動作を組み合わせて動きを組み上げるのがIFSによる操縦。

間接的にIFSを導入したデルフィニウムに比べて、完全に人型を模したエステバリスでは登録されている
モーション・データ量が桁違いに豊富であり、その中にはハンド・マニピュレータの指先で生卵を摘み上げる
といった、えらくノスタルジックなモーションも有していた。

メーカーが、一人のパイロットが同じアサルトピットを使用し続けることを推奨する理由がこれであり、
あらゆる動作の最適化がおこなわれ、使い込むほどに馴染んでいくのをパイロットは体感できる。
もっとも、本当の意味での最適化は、パイロットのナノマシンが形成する補助電脳に起きているのだが、
それを理解している者は少ない。

一切の手順を省略する事なく機体の構成システムをチェックして、アキトは機体の応答性を確認する。
一つ一つの手順には意味があるし、どのみちアキトには10ヶ月近くのブランクがあるのだ。
だから念入りに、そして慎重に感触を確かめる。

アサルト・ピットは現行生産の新型のものが使用されていたが、何ら違和感はなかった。
到底十分とはいえないが、感触を確かめた後、アキトは機体の背部、腰部、脚部に電力供給用の有線ラインを
接続させたままで、マーカーが指定する定位置へとアーキタイプの歩を進めた。
 

ボゾン・ジャンプに必要な”C.C”活性化用の電力は問題ないとしても、機体駆動用の電力は別だ。
エステバリスという機体が初期設計段階から徹底的な機体の軽量化を図った結果、エネルギー供給を外部に
依存している。
それはエステバリスという機体のスタンドアローンでの行動には、必然的に制約が付いて回る事を意味していた。

もちろん機体には補助動力としてバッテリーが内蔵され、オプションとして外付けの増装バッテリーも用意され
ているし、今回のミッションに際してもアーキタイプには機体に搭載できるだけの増装バッテリーを装備させてはいた。
 
それでも、ただでさえアーキタイプの現状のフレームはエネルギーを消費する反重力波スラスターと反重力推進機関を
搭載した0G戦フレームを改装したものなのだ。
バッテリーを節約する為には、ギリギリまではこうして有線で電力を供給させておくことは有効な手段だった。

武装は、ご丁寧に最初から製造番号が刻印されていないエステバリスの標準オプション。
ケースレス・タイプのラピッド・ライフルと予備弾装が数本、近接戦闘用のイミェイデット・ナイフ一本に、
吸着型地雷を外付けで3つ。
それと、使用には高出力を必要とする試作型の大型レールカノンが一門。

イネスとしては、アーキタイプを『b−1』装備で針鼠のように爆装させて送り出したかったのだが、
アーキタイプ自体が9割近くにまで手を加えられていた為に、外装に取り付け装備するオプションの殆どを
取り付けることが出来なくなっており、そのために、そちらは諦めざるを得なかった。

 
戦場を退き実験機となった機体は、いまはまだ何人にも扱いきれない徒花。
けれど真の主と出会い得て、再びに戦装束を施されての後、戦場へと舞い戻る。
それは皮肉な、そして因果のようでもあった。











前面のゲートが左右へと展開し、指示されるままにアーキタイプは立ち止まることなく進む。
やがて進入した先は、金色の光で満たされ、床や壁の一面に幾何学の模様が刻まれた半球状のドーム空間。

そこは、ネルガルが開発した”C.C”に限りなく近い組成素材を用いて火星北極冠遺跡内部を再現した場所だった。

その光景がアキトに苦い記憶を呼び起こす。
あの薄暗い遺跡内部で、ほんのわずかの差で再会することの叶わなかった少女のことを。
 
あのとき馬鹿正直に、幾層ものディストーション・フィールドにフィールド・ランサーを突き立てて進入しようとせずに、
イネスをイメージして跳べばよかったのだ。

そうすれば、間に合っていたはずなのに。
そうすれば、ウインドウを通してだけではなく、直接に会えたはずなのに。
そうすれば・・・・・・。
 

でもそれは後知恵の歪み。

結果はいつでも済んでしまってから判るもの。
過ぎてしまったことになら、いくらでも迷うことなく都合の良い理屈をこじつけて、最適の、あるいは
最良の選択肢を選べる。

そんなことは、結果を知れば誰にだって出来ることだ。

でも、いつだって直面した選択肢には後悔の残る選択ばかりを選んでしまう。
そして決まって、こう思うのだ。
あのとき、違う選択をしていたら、と。

『でも、たとえ過去に戻れても、たとえ歴史を書き換えることが出来たとしても、それでも、自分の経験した過去
は変わらないわ』

それはイネスが口にした言葉。
その通りだとアキトも思う。
アキトも、それを経験しているのだから。

それはクリスマスの日の出来事だった。
昔、ナデシコを降りることになった自分と入れ替わりに配属された少女がいた。
名前も聞かなかったあの少女が、交わした約束も果たせなかったあの少女が死ぬところを見て、それから自分は過去に、
2週間前の過去に戻っていた。

過去は変えることが出来なくても、未来なら変えることは出来る。
そう、あの時は思っていた。

そのとき自分は遠い所にいたけれど、その少女が死ぬそのことを、自分は必至に伝えようとした。
何かを変えて、違う所にたどり着こうと足掻いていた。
でも、結果は同じ。

なまじ未来を知っていた分、苦しみが二倍になっただけ。
例え過去に戻れても、やり直しの機会を得られても、起こりうる悲劇を知っていても、結局は何も出来ないことばかり
なのかもしれない。

力のもつ恐ろしさなんて、巻き込まれてから初めて判るものだ。
けれど、そのことを知らない、知ることのない大半の人間には酷く魅力的にうつるのだろうか。
まるで呪いの様な、こんな能力が。

 
 

「・・・・君、アキト君、アキト君ってば」

ぼんやりとした頭に響く自分の名を呼ぶ声に、アキトは眼前に浮かぶウインドウに、ようやくに気が付く。
そこに映るのは、気付かないうちに再会していた少女の、20数年分成長して大人になっていた少女の姿。
 
「あ・・・うわっ!」

「・・・・・・ちょっと。失礼ね、人の顔見て驚くなんて」

「あ、いや、違う、そうじゃなくて・・・・・・」

「冗談よ」

狼狽するアキトのその姿に、クスクスとイネスは優しい笑みを浮かべる。
なぜだろう、その微笑が屈託なく笑っていた幼い頃の彼女と重なって見えた。
 
願っても時を止めることも巻き戻すことも出来はしない、それが理だ。
大多数の人間には『今』しかなくて、誰もが過去の延長線上にある『今』を生きている。
 
”もしも”とか”やり直せたら”の言葉は逃避でしかないのかもしれない。
それに、そんなことを望んでしまった人間では、きっと自分のような人間では、何度やっても駄目なのだろう。
だから、人には『今』しかなくて・・・・・・。
 

以前、イネスに言われたことがある。

過去へと戻れた時点で、自分の経験した事象的な未来とは、未来に属する時間領域へと再び帰属し、
事象的に将来に起こり得る時間連続体の一つでしかなくなる。

つまり、自分の経験した過去は変わらないとしても、認識できる事象的な未来とは常に変革するものなのだ、と。

認識の限界。

同じ時間軸には『様々な可能性の世界』が存在する。
でも、観測者はいつだって、そのうちの一つしか観測する事しかできない。

世界の未来は不安定で多岐に渡り、それは選択によって確定されていく。

簡単に言えばこうなるが、ならばと、どこかで甘い夢を見てしまう。
同じ選択肢に対面したとき、いまここにいるテンカワアキトとは異なる選択を選んだ、もう一人の自分の存在が
いることを。
 
それは自分の経験してはいない過去を持ち、自分とは違ういまを生きて、自分とは違う未来に向かっている、
もう一人の自分。

そんな分岐した何処かの世界では、あの少女を助けることの出来た自分がいて、
そんな分岐した何処かの世界では、アイという少女と再会できた自分がいて、
そんな分岐した何処かの世界では・・・・・・。

それが自分ではなく、ただの良く似た別人だと理解してはいても、願ってしまう。



でも、いまの自分にも出来ることはあるのかもしれない。

それが、数時間前にイネスに聞かされた説明、”未来が過去に影響を与えている”という可能性。
『先進波』のほとんどは『遅延波』の干渉によって打ち消されるが、部分的には残留するという可能性も指摘されて
いる、といった件。

自分から伸びる影もまた、いや、いまここに存在する自分すらも、自分よりもずっと未来を生きるテンカワアキトの
影に何らかの影響を受けているのだろうか。

そして、自分のこれからの行動もまた、過去から来るテンカワアキトの目視することの出来ない道標となるのなら、
その萌芽を見ることも知ることも出来ないとしても・・・・・・。

それでも祈り、そして願う。

自分と良く似た別人が、自分よりも、ずっと聡明な選択を選ぶことを。


『・・・・・・でも、無理かもな』

そう思ってアキトは苦笑した。
自分の馬鹿っぷりは自分自身が一番知っている。
何しろ、いまの自分がもしも昔の自分に出会えたのなら、問答無用で殴り倒してやりたいくらいなのだから。

人には『今』しかない。
だからこそ、いまを精一杯に足掻く。
それでいいと思う。
そう、思うことにした。




「・・・・君、アキト君、アキト君ってば。ちょっと、本当に大丈夫?」

「大丈夫、少し考えごとをしてただけだから」

返答したアキトの声音はひどく落ち着いていた。
機体と接続したままの有線ケーブルから常時送信されてくるアキトのバイタル・データにも、イネスは軽く目を通す。
ドームへと機体が進入してきたときこそ、テレメーターに若干の乱れが見られたが、それもいまはない。
 
「イネスさん」

「なあに?」

データに視線を落としたままで、イネスは答える。

「ルリちゃんは?」

「いるわよ、ここに」

途端にイネスは優しい表情を浮かべ、視線を部屋の片隅に向ける。
そこには手持ち無沙汰に紙コップに注がれたコーヒーに口をつけながら、時折こちらを窺っているルリがいた。
イネスと視線が合うと、頬を染めたままで、不自然なくらいにそっぽを向く。

さっきから、そのしぐさを繰り返すルリが可笑しくて、またイネスは微笑んでしまう。
 









「俺が、跳ぶ」

そうイネスに伝えたとき、シワが付くほどに、けして離さぬようにとアキトの服を握り締めたルリ。
まるで、引き止めるかのように服を握り締めるそのしぐさは、ルリを普段よりもずっと幼く感じさせた。

けれど、普段のルリを知る人々が見たら、まず驚くだろうその姿にも、アキトは何の違和感も感じなかった。
生まれも育ちもみんなの考える普通とはだいぶ違った環境下で育った少女。
でも、たったそれだけのことだ。

普段は冷淡とも取られがちなルリ。
それは普段は心を押し込めてしまっているから。

でも、本当のルリは優しく、そして傷つきやすい、どこにでもいるごく普通の女の子だという、
そんな当たり前のことにようやくに気が付かされた出来事があった。

それはスカンジナビア半島の、ある廃棄されて久しい研究施設での出来事。

その時、その場所に一緒に居合わせたアキトは、その様子の一部始終を見ていた。
だから誰よりもそのことを知っている。
きっと、いまのルリ自身よりも。

そんなルリが、素顔をさらけ出して甘えてくれる。
それが、アキトには自分が信頼されているようで嬉しく、そして誇らしくもあった。

そっと俯いたままのルリに視線をあわせるようと腰を屈めるアキト。
でも、俯いたままのルリは、そんなアキトと視線を合わせようとはせずに。
それでもアキトは、ルリに向け説明した。
想いを言葉に置き換えて。

人は自分の考えを、自分の気持ちを他人に伝える手段をいくつも持っている。
けれど、いつだって最初に伝える手段は言葉だ。
一番原始的かもしれないけれど、一番扱いが難しいけれど、それでもそれが無くならないのは、
それが最も優れた手段だから。

自分たちの『自分らしく』が招いた結果。
受けるべき罰と、償うべき贖罪。
支払うべきモラトリアムの時代の代価。

もちろんそれは、ルリを含めてのナデシコクルー全員の責任だったけれど、みんなは、
いつか知る機会が訪れたときに知ればいい。

そして、その時に考えればいい。
招いた罪を、自分たちはどうやって償うかと。

でも、今求められているのは即応性。

「それが出来るの、いま、俺だけだからね」

その言葉に、ルリはようやくに顔を上げて、聞く。

「・・・・・・帰って、きますよね?」

すがるような金瞳に、アキトは頷いた。
そして浮かべる。
ルリの大好きな、みつめていると胸の奥に何か温かいものが満たされていく、あの優しい笑顔を。

アキトは小指を差し出して、それからルリの手も取り、お互いの小指同士を絡ませる。
素直に、されるままのルリ。

それはアキトの母親が教えてくれた、指切りというおまじない。
たしかその行為に付属する歌があったと思うけど、ルリは知らないし、アキトも忘れてしまっていた。

いま思い出せる母の姿は、血に染まり父と重なり合うように倒れた姿ではなく、笑って、叱って、困ってと、
普段アキトに見せていた表情ばかり。

悲しかったはずの記憶は薄れて、楽しかった記憶ばかりが残る。
人間は本当に都合良く出来ている。

「必ず、帰ってくるよ」

アキトは言葉にしてルリに約束した。












手持ち無沙汰に紙コップに注がれたコーヒーに、ルリは申し訳程度に口をつける。
良い豆を使っているそうだけれど、でも、美味しくない。
アキトの部屋で飲んだインスタントの方がずっと美味しかった。

どうしてだか、置いていかれるような心細さと錯覚を覚えてしまい、アキトにすがっていた自分。
何故あんなことをしたのだろうと、今更ながらに恥ずかしさがこみ上げてきて、ルリは自己嫌悪に陥る。
まるで駄々をこねる子供みたいだったと、思い出すたびに嫌になる。

それでも屈みこんで視線を合わせてくれたことが、小指を絡めて約束してくれたことが素直に嬉しかった。

甘えることの心地よさを覚えてしまった自分。
この気持ちを最初に知ってしまったのは、見せ掛けだけの嘘だらけの国での、自分の一言が原因で起きた喧嘩の後の
夕暮れの噴水の前でのこと。
 
瞼を閉じて最初に浮かぶのは、自分に向けてくれる、あの優しい笑顔。
耳によみがえるのは、ついさっき交わした約束の言葉。
彼の姿を、彼の言葉を思い出すたびに、暖かく、そして切ない思いが胸を満たしていく。

この気持ちが何なのか知らないなんて、それこそ嘘だ。
知っていたし、理解もしていた。
アキトに向ける自分の気持ちが何なのか、ずっと前からルリ自身解っていた。
 
解ってはいたけれど、伝えなかった。
伝える術を知らないほどに、幼かった、あの頃の自分。
違う、きずいた位置を壊すのが怖かったのだ。

そしていつしか、彼はユリカを選んだ。
だから、この想いはずっと伝えずに、でも忘れずに胸に秘めておこうと、そう思っていた。
 
それでよかったし、もう十分だった。
伝えることは出来なくても、好きになった気持ちは本当のこと。
人を好きになれたことで、得られる何かがあることを、ルリは初めて知った。
思い返せば知らないうちに、色んなことを彼は教えてくれていた。
それだけで十分だった。

でも、彼は否定してしまった。
彼自身の言葉で、ユリカに対する自分の気持ちを否定してしまった。

そのことを聞かされたとき、表情には出さなかったけれどルリの胸に最初に芽生えた気持ちは、喜び。
 
彼にはユリカがいるから。
その言い訳がもう使えないと知ったとき、どこかで喜んでいる自分がいた。
自覚してしまえば、もう無意識に抑えてしまっていたその感情を抑えきれなかった。

徐々に、でも確実に膨らみ始めていたこの気持ち。
いまも彼を想うだけで胸の鼓動も、顔のほてりも、何もかもが止まらない。

自分の胸にその想いの灯火が芽生えたのは、いつだったのだろうと考えるうちに、また視線は自然と
イネスとウインドウ越しに会話する彼の方へと向いてしまう。

さっきから繰り返しているこの行為。
もう何度目だろう?

でも、振り向いたイネスの視線に気が付いて、あわてて視線をそらして誤魔化すように紙コップを口につける。
そのときになって、ようやく中身を飲み干してしまっていたことに気が付いた。

俯き、ため息が漏れる。
行動の逐一が自分らしくない。

でも、どうすればいいのかは、もう解っていた。
言葉にして伝えなければ、誰の耳にも届くことは無いのだと、彼が教えてくれていた。
自分の彼への思いに嘘も偽りもない。

だから、胸を張って言える。
彼が好きだと、彼に恋していると。
 

この想いを伝えてたいと、いまなら素直に、そう思える。
たとえ結果がどうであろうと、言葉にして伝えなければ、誰の耳にも届くことは無いのだから。

それが、もしも望まぬカタチに終わったとしても、それでも彼を好きでいられる。
望まぬカタチに終わったからといって、彼を嫌いにはなれない。
好きになった気持ちまで否定したくないから。

でも、怖い。

好きだという、その、たった一言を伝えることが。

想いを言葉に置き換える、そのことがこんなにも難しく、そしてこんなに大変なことだとルリは初めて知った。

それにどこかで躊躇してしまう理由の一つに、彼女の存在があった。

自分を引き取ってくれたし、すごく自分勝手なところも多いけれど、ルリは彼女のことは嫌いではない。
でも、アキトに自分のこの気持ちを伝えたら、いまの関係は確実に壊れてしまう。
怒られて、罵倒されて、ひょっとしたら憎まれて。
 
そう考えてしまう度に、苦しくなり、そして怯えてしまう。
 
彼に出会う前の、あの船に乗る前の自分なら、こんなに苦しまなかったのにとルリは思う。
それでもいまはもう、彼に出会わなかったことなど考えられなかった。
考えたくはなかった。
 
だからこそ、辛くて、悲しくて、そして苦しい。








「・・・・ちゃん、ルリちゃん、ルリちゃんってば」

ポンポンと肩を叩かれる感触に、ぼんやりと金瞳を向ける。
いつの間にか、目の前に立っていたのはイネス。
その姿に、息が止まりそうに驚く。

「・・・・・・ひゃ!」

まるっきりアキトとおんなじ反応にイネスは苦笑する。
 
「さっきからこっちを見てるから、何か用かなって思って」

我ながら意地悪な質問だとイネスは思う。

自分の過去も無く、思い出も無く、望むことも知らず、ただ待つだけだった少女。
でも、いまのルリは、そんな心を押し込めていた昔のルリとは違う。
いま本当の年齢に見合ったような姿の少女を見て、何に悩んでいるか判らないはずはないのだから。

だから、どこか自分と良く似たもう一人の自分に向けてイネスは語りかけた。
ずっと昔、同じ人を好きになった女性として。
 
イネスとルリがこのとき互いに交わした言葉は少なくて、そして短い。
けれど、そのわずかな会話が、簡単なように見えて、その実、ひどく難しいその行為の最初の一歩に躓いて
しまった少女に希望の萌芽を与えてくれた。

イネスが戸惑う少女に与えたものは、ただのきっかけ。
でも、ルリへ向けて語られたイネスの言葉と想いは、たしかにルリの背を押してくれた。

はにかむように俯いて、それから顔を上げるルリ。
その表情には、もう思い詰めた影はなく、代わりに華がほころびるような笑みを浮かべていた。

そして迷いない足取りで、ルリは軽やかに駆け出していた。
まるで、枷から解き放たれたように。
彼と対話する、そのために。
 

 




その背を見つめて、イネスは想いを馳せる。
幼かった、すべてを忘れる前のあの頃のことを。

大好きだったお兄ちゃん。
それはきっと、初めての恋。
でもそれは、いまの自分ではない、いまはもういないアイという少女の感情。

事実、月日を重ねた自分がいま彼に向ける視線は、昔を懐かしむものだとイネスは自覚している。
そのことが少しだけ悲しく、寂しい。
 
だから、だ。
ルリが彼に向ける視線に眩しさを感じてしまうのは。
その眼差しが微笑ましくもあるし、そして同時に少しだけ羨ましくもあったのだ。
 
まるで嫉妬しているようだと、イネスは自分自身に苦笑する。

青い瞳が再びルリの姿を追う。

彼と対話が可能な端末の前に立ち、顔をほてらせて、けれど視線をそらさずに彼と言葉を交わす少女。
その姿に、イネスは唇だけを動かして、声には出さずにエールを送った。

たった一言、がんばれ、と。

 

 

コミュニケのスクリーン越し。
なのに、アキトの自分に向けられる優しい眼差しに、ルリは少し気恥ずかしさを覚えてしまう。

けれど、それは決して不快ではない。
むしろ優しく心地よくて、見つめられていると胸に暖かなものが満たされる、そんな眼差し。

「じゃあ、いってくるね」

「はい、いってらっしゃい」

そして回線は遮断される。

結局、伝えられなかった。
けど、回りには人も沢山いるし、そんな環境下で告白するのは、ちょっと恥ずかしい。
何よりも自分のキャラクターじゃない。

大体、『あの人じゃないんだし』とルリは思う。

だから、彼が戻ったら、そのときあらためて伝えようと決めた。
出来れば静かな場所で、出来れば誰にも聞かれないようにして。
 
何となくその情景が浮かんでしまい、また白い頬が赤く染まってしまうルリだった。
 








呼吸を整えてから、アキトはイメージングを開始する。
脳裏に浮かべるのは、あの懐かしき船と、そして遺跡のコア・キューブ。

パキリと、どこかで硬質のものが砕けるのを感じた。
それが精神感応。

そして知覚せずにはいられない独特の感覚を感じた。
それがリンク。
 

それと共に、光の軌跡がアキトの全身を走り、その身体に幾何学の模様を描き出す。
 

それを合図に観測され始める。
アーキタイプに内蔵されたクリスタルの活性化が。
機体の周辺で増大していく光子重力子が、そしてπ中間子が。

それはフェルミオン=ボゾン変換の前兆。

アーキタイプに接続されたままの電力供給用ケーブルを、アキトはまとめてパージする。
途端にバッテリー残量を示すゲージが”インフィニティ”から”パーセンテージ”に変化した。

アーキタイプが瞬く間に青白い時空粒子へと変換されていく。
その現象は、フェルミオン=ボゾン変換値がジャンプ最適状態へと到達したことを表す現象。

それらに反応するように、床や壁の一面から金色の粒子が天上へと上り、金色の粒子が幾何学の模様が刻まれた
半球状のドーム空間を満たしていく。

幻想的なまでに美しい輝きの中で、アーキタイプより発する青白い時空粒子の輝きは一際に強まり、周囲へと
光の波紋を放ちはじめた。

その状態となったとき、青白い時空粒子は一呼吸の間もなく弾け、そして拡散した。
 
残されたのは金色と青白い儚い残光のみ。
それすらも反応を終えたかのように四散し、霧散し、すぐに消えた。
そして静寂。




「アキトさん・・・・・・」

不安げなルリの、その小さなつぶやきの声は、管制室の喧騒の中でかき消されてしまう。
そっと、イネスのあたたかな手がルリの肩に乗せられる。
 
「帰ってくるわ」

自分自身に言い聞かせるようなイネスの言葉に、ルリも頷いた。

あの人は帰ってくる。
絶対にあの人は帰ってくる。

自分自身に言い聞かせるように、ルリは胸のうちで、その言葉を繰り返した。







 


まず、浮遊感と落下する感覚。
そして、その果てに、木星表面を連想させる大赤班と、その手前に浮く光り輝く都市を知覚する。
それは、アキトがボゾン・ジャンプを行うたびに観る光景。

単独でのジャンプを経験するものは皆、この光景を目にするのだろうか?
ふと、そんなことが頭をよぎる。

その光景を知覚すれば、次は引き戻される感覚を感じる。
感じれば、一瞬のようで永遠のような奇妙な感覚の終わりが近いことを、積み重ねた経験は教えてくれた。
 
アーキタイプ以前の、消費され続けた実験機に搭載されたセンサーの類は、ボゾン・ジャンプ中の一切の情報を
記録しないし出来ない。
実験機が観測するのはジャンプ前とジャンプ後の相違的な事象の、ただそれだけ。
 
だから、この光景とこの感触は単独での生体跳躍が可能な人間のみが見ることができ、知ることができるものなの
かもしれない。

やがてアキトは自分から、そして機体から剥離していく青白い時空粒子の存在を知覚する。
それが、時空跳躍完了の合図。
そして、肉体に備わった感覚が再び機能し始める。
それは、まどろみから目覚めるのにも似た感触。

ジャンプアウト。

同時に実験機であるアーキタイプに初めから搭載され組み込まれるか搭載されていた機材、
あるいは増設された観測機が自動的に起動し、受動的モードで周囲のあらゆる情報を観測し記録し始める。

全方位スクリーンが写しているのは、薄暗く、高さも床面積もかなり広大な空間。
周囲の空間の推定映像がウインドウ表示されると同時に、センサが何かを機体から向かって下方に捉えた。

見つけた。
映された薄暗闇の中に浮かぶ懐かしい船のシルエット。
それにアキトは目を奪われる。
 

その船の特徴的な船体は、船底部を上面にさらした格好で固定されていた。
船底部の船殻には大きな穴が開けられ、両舷のエンジンプロックからはすでに相転移エンジンと核パルス推進機関が
取り外され、その周囲の空間にはヒサゴプラン建造現場で使用される建築用小型船が数隻浮遊しているのが確認できる。

周囲に幾つも設置された照明灯が照らす先は船底部の大きな穴。
そこには幾何学の紋章の刻まれた金色の立方体、遺跡のコア・キューブとそれに取り付いている宇宙服を着た
大量の人の姿が見て取れた。

その様子の逐一をアーキタイプの観測用機材は冷徹に記録し観測し続ける。

でも、アキトは違う。
見つめているうちに、怒りとも悲しみともつかない何かが、胸のうちからこみ上げてくるのを、
アキトは抑えきれなかった。

それでも頭を振り、歯を食いしばり、その感情を押し殺す。 
自分がここに来た意味を、そして自分の成すべきことを思い出す。
 
息を吐き、そして息を吸う。
その当たり前の動作を、意識して繰り返す。
繰り返して頭を冷やす。

大丈夫、致命的な問題は、まだない。
冷静に、冷徹に、感情を押し殺せと、そう自分に言い聞かせる。

目標は二つとも目の前に、手が届くところにあった。

僥倖だ。
でも、それは偶然。
けれどいまなら、それを必然に変えることは出来た。

いま、遺跡と”scv2027"の端末の回収に優先順位はない。
だから、両方を同時に奪い返す。

 
アーキタイプの送受信プロテクトを数秒解き、ナデシコに向け預かった秘匿コードを送信した後、
機体の送受信プロテクトを再設定する。

ナデシコの船殻の一部がわずかに振動し、生き残っている幾つもの”scv2027"の端末部が周囲のユニットごと
外部へ向けて排除される。

さすがにその振動で、遺跡のコア・キューブ周辺の宇宙服たちにも気付かれた。
何名かが頭上を、こちらを指差している姿も、光学ズームで確認できる。

だがその時、アキトは思考を行動へと移していた。
機体に搭載された反重力推進機関が唸りを上げ、発生させた力場が何もない空間を蹴り、アーキタイプは加速する。

まるで獲物を狙う猛禽類のように肉薄しようとするそのとき、センサが前方空間、ナデシコとアーキタイプを隔てる
ちょうど中間点に重力波反応を捕らえる。


機体のモニターが、センサが、重力波を下品に撒き散らしながら具現化する質量の正体を捉える。

それは間違えようのない特徴を持った機体、ジン・タイプだった。

瞬時にアーキタイプに搭載されたデータ・ライブラリから照合を開始する。
だが検索結果は照合不能。
少なくとも機体のライブラリには登録されていないモデルだ。

胴体部こそ、ジン・タイプの中でも最も大型のフレームを持つ、ダイ・マジンと呼称されるタイプに酷似してはいたが、
円盤状の頭部と、その頭部に装備されたオプション、そして右手に握られた幾つもの輪の付いた槍が
正規のモデルではないことを表していた。

戦後に製造されたか、改装されたかのカスタム機だろうか。
どのみち判らないし、解るわけがない。
けれど、ただ一つ判ることは、その機体が遺跡を守護する敵だということ。

このままだとナデシコとの接触までに、ジン・カスタムに無防備に機体の背をさらすことになる

ならば。
 

アーキタイプは機体を捻って逆制動をかけ、推進ベクトルを切り替える。
それと同時に、機体制御用の反重力スラスターを使って、アキトは瞬時に射撃を、攻撃を行うに最適の位置へと
機体を移動させた。
 
ジン・タイプはジャンプアウト時から数秒間、一切の物理的行動が取れなくなる。
それは、アキトの積み重ねた経験則が知る答え。

卑怯かもしれない。
けれどカタチにこだわってどうする。
勝ち方に美学なんて必要はない。
 
 
腰だめにレールカノンを構え、起動用の電力を供給。
機体からベンチ・テスト以上の馬鹿みたいな量の電力を持って行かれ、アキトは内心舌打ちする。
機体駆動用のバッテリーには限りがあるのだ。

電力の供給を受け、バレル上部がわずかに持ち上がり、発砲可能状態となったレールカノンの銃口が
ジン・カスタムと重なる。

戦争という大義名分の庇護の下、アキトは敵だった人々を殺したことがある。
そして戦後を迎えたいま、今度はきわめて利己的な理由で人を傷つけ、あるいは殺そうとしている。
一見して同じ行為のようでも、もうその行為に大義名分はないし、つくはずもない。

いや、大義名分があろうとなかろうと、ただ一度でも、ただ一つでも命を奪ってしまったら、
もう後には退けないのかもしれない。

贖罪の手段などは存在せず、一度でも罪を犯してしまったら、あとはもう罪を重ね続けるしかすべはないのだろうか。
あるいは、自覚すること自体が、ひょっとしたら罰なのだろうか。

逃げることの叶わない自分の影のように、自覚した罪と向き合い続けていくことが、そして自分自身と折り合いを
つけるまでの時間こそが、ひょっとしたら罰なのだろうか。

ふと、そんな思考が頭を過ぎる。

けれど、数式や公式ほどに明確な答えがあるわけでもないのだ。
それは、その立場に立った個々の人間の出すべき模範的解答のない、問いと答え。

でも、アキトはすでに一つの答えを出していた。
いまアキトはアーキタイプに乗り、そしてこの場所にいる。
それがアキトの出した答えだ。

犠牲とされた同郷の人々とを天秤にかけたとき、
罪を重ね続けることを決めたのは、選んだのは紛れもないアキト自身だ。
 
自分で決めたことだから後悔はない。
後悔はしない、そのはずだった。

なのに実際には、射線軸の延長線上に宇宙服を着た大量の人の姿が見えてしまったとき、不意に左手の人差し指を
トリガー・スイッチから離してしまっていた。

そしてそれは、貴重な数秒を失しなわせるには十分な躊躇。
この土壇場で躊躇した自分自身を、アキトは罵る。
 
 

空間に完全に復元するジン・カスタム。
その右手に握られた槍が突き上げられるようにアーキタイプへ向け、突き伸ばされた。

同時に、アキトもトリガー・スイッチを引き、弾頭がリニア・バレル内で電磁加速され発射される。

が、浅い。

射出された弾頭は狙いを逸れて、ジン・カスタムの円盤状の頭部先端に着弾。
そのまま装甲を貫通してしまい、兆弾は下方の遺跡周辺部へと再び着弾した。

射撃姿勢を解きながら、迫る槍を避け切れないと悟ると同時に、ディストーション・フィールドを展開させ
迫る穂先をフィールドの外周にそって受け流す。

接触時、物理的な衝撃に機体を揺さぶられながら、アキトは姿勢制御用の重力波スラスターを起動させ
ジン・カスタムと一旦距離を取り、間髪いれず空間の内壁を背に、下方のナデシコへと機体を躍らせようする。

だがそれはジン・カスタムの標準武装と、頭部に装着されていたオプション装備によって阻まれた。
切り離され広げられた爪のような装備が二つ、同様に切り離されたジン・カスタムの左腕が、アーキタイプを
捕食せんと迫る。

再び逆制動をかけ、飛来するジン・カスタムの左腕をやり過ごすが、残る二つの広げられた爪のような装備には
その隙に下方へと回り込まれ、機体の進行ルートを塞がれてた。

躊躇するように機体をさらに減速させる。

そのときジン・カスタムが機体正面をこちらに向けていた。
胸部のひし形のシャッターが展開され、その周囲に重力波反応を感知していると機体のセンサが警告する。
響く警告音に、アキトはゾッとした。

 
 クラビティ・ブラスト。

防衛しているであろう施設内での発砲はない。
そんな楽観的な希望的観測を否定するように、収束された攻撃性の重力波が放たれる。

マキシマムの出力ではなくミニマムの出力での発砲だったが、それでも直撃すればエステバリスなぞ十分に粉砕出来る
威力を、それは有していた。
事実、それが直撃した内壁は、使用されている堅牢なはずの素材を厚壊させてしまっていたほどだった。

が、同時に周囲に崩壊して四散し撒き散った建築材はデブリとなってしまい、それが、エステバリスの排除の確認を
妨げてしまってもいた。

いまのセンサの集中している頭部を損傷したジン・カスタムの状態では、大量のデブリの浮遊するこの空間の中での
正確な探索は不可能だった。
 
それでも、その状況下、オプション装備と切り離した左腕部を回収し、遺跡のコアキューブ付近へと降下しながら、
ジン・カスタムは用心深くも損傷によって機能低下したセンサで全方位を索敵する。

その行為はジン・カスタムの搭乗者の狡猾な性格を窺わせるに十分だった。
 

一見して、大量に浮遊するデブリのなかに機動兵器らしき残骸は見受けられない。
では、アーキタイプは何処に?

仮に、ジン・カスタムのセンサが正常に機能していれば、機体位置から見ての上方で、ある状況下でのみ観測される
特有の重力波の反応と、同様の条件下で付属して観測されるボース粒子の増大反応を検知することが出来ただろう。

固定されたナデシコから見て天井に近いほどの上方に、装甲から青白い時空粒子を剥離させながら、
そこにアーキタイプは存在していた。
 
生き残る為に、自分と機体が持つ力を最大限に発揮して。

再びに強襲をかけるべく、アキトは息を整えながら、機体の全センサを受動的モードに移行させる
次いでレールカノンの照準も光学マニュアル・モードに切り替えて、出来得る限りこちら側の存在を
秘匿させるように努めた。

幸運にもデブリがデコイの役目を果たしてくれていた。
 
光学照準が浮遊するデブリの向こう側のジン・カスタムを再び照準内に収める。
そして、反れた初弾が着弾した遺跡のコア・キューブ周辺も。
 
望遠照準代わりに拡大されているウインドウに映されるその光景。
解像度の高さから必要以上に鮮明に映し出される、ほんの数分前は人だったもの。
そして、いまは骸となったもの。

操縦席部分が酷く損傷し、航行不能となった建築用小型船。
浮遊する氷結した血塊、ちぎれた肉片、裂けた腹部から爆ぜた臓腑。
築かれた屍の山と、凍てついた血の河。

生存者、ゼロ。
 
それは、兆弾し遺跡周辺部へと再び着弾した初弾のもたらした、凄惨な惨状。

 
アキトはこみ上げる嘔吐感を押さえ込む。

その光景が、とっくに退くことの出来ない位置に立っているその事実を、今更ながらに突きつける。
 
何を今更と、冷ややかに自分の中のどこかが、ささやく。
まったくだ。
自分でも、そう思う。

なら、逃げるのか、また?
そう、自分の中のどこかが、ささやく。

それは酷く甘美な、誘いのささやき。
 

いま出来る選択肢は、ただ二つ。
このまま逃げて生き残ることを選ぶか、それとも戦って生き残ることを選ぶかの、ただそれだけ。

息を吐き、そして息を吸う。
その当たり前の動作を、意識して繰り返す。
冷静に、冷徹に、感情を押し殺せと、そう自分に再び言い聞かせる。

IFSコントロール・ボールを握っていた右手を一度離し、その手のひらを見つめた。
物理的には何も変わってはいないその手が、いまのアキトには赤黒く染まっているようにも見える。
けれどその手でも、救える何かがあるのなら・・・・・・。

嘲笑の表情を浮かべる。
そんなものは、自分への都合の良い言い訳だ。
それに、いまこのときは正しいと思う選択だって、きっと後で後悔することになる。

でも、いま出来ることがあるのなら、いま出来るだけの力があるのなら、出来ることをやっておきたい。

結果はいつだって済んでしまってから判るものだ。
泣き言も、後悔も、そのときにすればいい。

一瞬だけ、アキトは瞑目する。
そして、次に目を開けたとき、その顔には冷徹な表情を貼り付けていた。

アキトは手を、再びIFSコントロール・ボールに添え直し、そして、握り締める。
握り締めたその右手の甲で、ナノマシンのパターンが力強く輝いた。

それが答えだと言わんばかりに。

起動用の電力をレールカノンへと再度供給。
その銃口を再びジン・カスタムに重ねる。

覚悟は決めた。

迷いは、もうない。

だからいま、アキトは自分の意思で、トリガー・スイッチに乗せた指に力を入れた。












 




火星北極冠遺跡を筆頭とした古代火星文明に関する超技術の既得権の独占。
それこそが前大戦におけるネルガルの、そして木連の、いや、戦争と言う行為そのものの本質だった。

もっともナデシコの『自分らしく』が戦争の目的を失わせるに伴い、木連、地球側双方の戦争継続意思は
急速に減少、同年5月に起こった木連側の若手穏健派による”熱血クーデター”を経て、両陣営は休戦協定を
結ぶに到る。
 
時に2198年9月某日、熱血クーデターによって誕生した木連新政権は地球連合との間に休戦条項を結び、
それからしばらくの後、和平条約が正式に締結されるに到って時代はようやくに戦後を迎える。
 
和平条約締結後に木連新政権を組み込むかたちで、それまでの地球連合は新地球連合として
その呼び名を変えるのだが、これは多数の反ネルガル企業が連合各国へ強く働きかけての結果だった。

理由の一つは、極冠遺跡で得られる超技術をネルガルが独占している状況を打破する為に、木連の所有する
プラントの超技術の合法的既得権を得る為であった。
これにより新連合設立後は、古代火星文明の超技術を持ちうるのはネルガルのみ、という構図は崩れ去る。

そしてもう一つに、木連との戦争により連合軍、とりわけて宇宙軍に戦力が集中していた事に
対する懸念があった。
戦後、戦うべき敵がいない現状では、連合軍内において宇宙軍こそが地球圏最大の脅威となってしまっていた。
仮に宇宙軍が武装決起した場合、連合陸、海、空軍には対抗する術がなく、ネルガルと宇宙軍の関係を
快く思わない勢力にとって、これは由々しき事態だった。

そのため反ネルガルグループが主体となって構成された新地球連合は、それまでの軍組織である
連合陸、海、空軍の解体、再編を行い、それを本来なら連合軍に編入予定であった木連軍の新たな受け皿とした。
かくして旧連合軍は解体され、代わって地球連合統合平和維持軍が結成され、先ごろ、つまり今年度3月より
新地球連合の発足に合わせ本格的な活動を開始した。

ただし連合宇宙軍備に関しては即時の解体は様々な理由によって不可能であった為と、新しい組織である統合軍
の力を疑問視する世論も強かった為に、連合宇宙軍と統合軍はしばらくの期間を共存する事となり、その後、
いくつかの段階に分けながら連合宇宙軍は統合軍への編入が行われる事になる。

宇宙軍の解体が決定された時点で、反ネルガルグループの目論みどうりにネルガルの衰退は明らかなものとなった。
事実、統合軍所属艦にネルガルの新規製造宇宙艦船が、まったく見受けられなかった事を見ても判るように、
これは莫大な利益を上げる宇宙艦船の建造が、すべて他の企業へと流れたことを表していたに他ならない。
すでにこの時期、軍需産業における既得権の多くをネルガルは失っていたのだ。
それはネルガルが統合軍内において遠からず淘汰されるであろう運命を物語に十分な事実だった。

新地球連合は、現在、戦後の復興事業の柱として太陽系航路の開発計画、ヒサゴフラン・プロジェクトを
開始させている。
これは先の戦争で木連側が使用した生体的な巨大建造物”チューリップ”を多数配置し、それらを機械的に
コントロールして太陽系内にボゾン・ジャンプによるチューリップ・ハイゲート・ネットワークを構築しようと
する計画である。
 
この計画は、立案計画の発起人でもあるクリムゾングループが、A級ジャンパーの精神感応を必要とせずに
”C.C”を起動する(あるいはさせる)方法と、レトロスペクトへの変換方式およびその入力方式を
導き出したと発表したことに端を発していた。

チューリップからチューリップのみの移動と限定されてはいても、この発表がヒサゴプラン・プロジェクトの
礎となった事は事実であり、反ネルガルグループの筆頭にあたる豪州有数の企業体であるクリムゾン・グループが
主権を握る事となった以上、その建造計画にネルガルが参加する事はありえなかった。

 
そして2199年3月現在、世界は、クリムゾンを筆頭とした反ネルガルグループの思惑通りに描かれた道を
なぞる様に歩んでいた。






「かくして、新地球連合は目先の利益と、反ネルガル企業の口車に乗せられて、なにやらきな臭い組織への
お膳立てしてしまうこととなる、か」

アカツキは面白くなさげにそうしめる。
いまこのときも、現在進行形で暗躍しているのだ、件の組織は。

「・・・・・・で、草壁中将が生きていることは間違いはないね?」

そう、アカツキは確認する。
もう袖を通す者もいない優人部隊の純白の制服を、いまも着た男に向けて。

「はい。
テンカワアキトとの交戦で確認されたジン・タイプのカスタム機が決め手です。
この機体は、草壁子飼いの暗殺者が大戦時に市民艦からの脱走者の追撃に使用していた機体と同一機で、
クーデター直後の草壁の失踪と時を同じくして、操縦者と共に所在不明となっています。
まず間違いありません」

いまも優人部隊の制服を着る男は、己の感情を殺して伝える。
公式には木連は戦中、戦後を通じて脱走者の存在を認めてはいない。
けれど実際には、確かに存在していた。
彼がそれを知ったのは、あの熱血クーデターの渦中でのこと。
そこで彼は、自分たち優人部隊に刻まれた罪人の烙印を知る。

市民艦からの脱走者は、例え捕らえられたとしても、すでに木連市民ではなかった。
その存在しない人々を贄として、生体跳躍に耐えられる肉体は生み出された。
示唆しているのは、それを得る為に繰り返されたであろう非道な生体実験の記録の数々。
 
それを知るに至って、初めて彼は、竹馬の友であった白鳥九十九の言葉を真に理解した。
上官たる草壁、そして木連の為政者達が、すでに正義というものを見失っていた事を。
いつのまにか大儀すらなく、自分たちの利益と都合こそが”正義”と成ってしまっていた事実を。
このとき、彼はようやくに理解した。
 
友の言葉に耳を貸さず、その手で友を殺めた愚かな道化は、その一切の情報を手にクーデターの渦中、  
その姿を消した。
 
そしていま、ここにいる。
友を裏切り、木星を裏切り、そしていま、ネルガルの犬となって。
彼は、ここにいた。

報告を終え、退出しようとする彼にアカツキは告げる。

「ああ、白鳥九十九の妹への奨学金、君の希望どうり手配しておいたからね。
君からであることは伏せて、希望どうりに匿名で」

「感謝します」

彼は、その言葉に深々と頭を下げ、そして、退室した。




椅子に深々と腰を掛けなおし、アカツキは思考をめぐらす。

熱血クーデターで行方不明となった草壁が、時期こそ不明だが大戦中から地球側の企業体である
クリムゾン・グループと接触していたことは、既にアカツキも知っている。

クーデター直前、恐らくは偶然にナデシコを拿捕。
そして、その時に入手した遺跡演算ユニットの共同研究を、密約を取り交わしたクリムゾンを筆頭とした
反ネルガル・グループに持ちかけて、その見返りとして人型機動兵器の開発及び製造技術のノウハウを
入手したのだろう。

もっとも、直後のクーデターで木連における基盤を失い、人型機動兵器に関する計画はご破算に
なったのだろうが、草壁には行く先は数多にあった。
そして戦闘中に行方をくらませ、遺跡を手みあげに保護を求め、雌伏のときを過ごす。

推論だが、そう間違ってはいないとアカツキは考える。
 

アキトがボソン・ジャンプで到達した地点もまた、クリムゾンが主権を握る場所だった。
そこは、ヒサゴプラン・プロジェクトの現在建造中のメイン・ターミナル・コロニーの一つ”アマテラス”。

その建造中の”アマテラス”内の、正規の設計図には記載されていない区画の同じ場所に、ナデシコの船体と
遺跡のコアは同時に秘匿されていた。

その区画で目標物と接触したアキトのアーキタイプは特徴的な外観を持つジン・タイプのカスタム機との
交戦状態にはいる。

アーキタイプの持ち帰った戦闘記録や機体の損傷具合が如実に物語っていることは、
戦闘が苛烈を極めたということだろう。

その際の戦闘記録を閲覧する度にアカツキは苦笑する。
一パイロットとしてはアキトの行為に対して、羨望、というか嫉妬を覚えている自分がいることに。

もともと、エステバリスとジン・タイプを一対一で戦闘させれば、どちらに分があるかは明白だった。
それでもその不利な状況下で、なおかつ負傷しつつも、アキトは敵機を殲滅し遺跡のコア・キューブと
”scv2027”の端末を持ち帰った。

アカツキとしてはそこまでの期待をアキトにはしてはいなかった。
だからそれは、思惑とは別に発生した行幸。

遺跡のコア・キューブと”scv2027”の端末を同時に回収できた事もありがたいが、
もうあちら側の目論んだ筋書き通りに準じ演じる必要も無い、その事こそが行幸だった。

 

 
 
内壁や防壁を破壊して二機の戦闘はコロニーの外側へと及んでいく。
その際に、アーキタイプは統合軍と木連軍から成る混合コロニー守備隊艦艇と接触した。

それは間違いのない事実だ。

もっともアーキタイプの側は自機の存在と素性をを隠匿する為に、あらゆるデータ送受信の類に対してガチガチに
プロテクトをかけていた。

そのために、基本設定された重力波ビームを受信する際の、同時に母艦ないし送信艦と確実にデータ・リンクする
システム自体は凍結させておいたのだが、それでも相手側の物理的に観測する機材までは誤魔化し様がない。

混合コロニー守備隊からしてみれば、アーキタイプやジン・カスタムは識別不明の所属不明機であり、
このことは本来ならば報告すべき対象となるはずだ。

なのに当の混合コロニー守備隊が強襲当日に統合軍本部に提出した報告書には、目前で行われていた戦闘の事実も、
そして、守備するはずのコロニーに刻まれたはずの戦闘の痕跡を含んだその一切が記述されてはいない。

”アマテラス”に駐留する混合コロニー守備隊の責任者は統合軍の元木連出身者シンジョウ・アリトモ中佐。
いや、二ヶ月前の強襲時にはシンジョウ・アリトモ中佐の所属は、まだ木連軍だったか。

どのみち、所属がどちらであったかなど変わりはない。
このことは、草壁の組織あるいは結社の水面下での予備工作が、既に現新地球連合政府や木連軍を組み込んだ
統合軍へもかなりの規模で浸透しているという厄介な事実を意味しているのだから。



 
戦中からボゾン・ジャンプの研究に着手していたネルガルにすれば、近年クリムゾン・グループの
発表したボゾン・ジャンプに関する類の発表の、そのすべてに目新しいものはない。
 
これは、木連同様にクリムゾン・グループもまた古代火星人のオーバーテクノロジーの本質を
理解しきれてはいないことを如実に物語っているのかもしれない。

現状ではネルガルもさほどの差はないのかもしれないが、早くから火星北極冠遺跡に独占的に触れていた分、
そのアドバンテージは、ネルガルの側がはるかに大きいだろう。

だが大戦中から、ネルガルはボソン・ジャンプ等に関わる一切の情報を秘匿し続けていた分、
反ネルガルグループが主体となって構成された新地球連合の体制下となったしまった現在では、
逆に情報を秘匿し続けていたことが裏目に出ているという、なんとも皮肉な構図を作り上げていた。

 
戦時中、地球全土に形成されたチューリップ・ハイゲートの規模を、今度は太陽系規模に拡大させようと
いうのがヒサゴプラン設立時に掲げられた目的。

復興の時代、経済を立て直すにも宇宙開発のような大事業の必要性を考慮すれば十分に理解はできる。

だが、それは同時に時間移動というボゾン・ジャンプの本質から意図的に目を逸らさせているようにも
アカツキは感じていた。

ヒサゴプランにおける多数のチューリップを並列管理する統括機能自体が、地球側の既存のシステムとの
組み合わせによる一種力任せな、というか間に合わせ的なものでしかなかった。
 
特定のチューリップから特定のチューリップのみへの限定された移動。

それは戦時中に見せたチューリップの運用法の利点を大きくスポイルするものでしかなく、
だから、このヒサゴプランにおけるチューリップの運用法では、実質的には退化といっても過言ではないのだ。

ただ、この疑問は一人の男の名が浮かんだことで氷解する。
戦争当時の木連の実質的な指導者であり、木連のクーデター時に死亡、いや行方不明とされていた男。

 草壁春樹。

戦後のあらゆる事象の起点ないし始点は、この男、草壁春樹から始まっているとみて間違いはない。
その草壁と盟約を交わしたであろうクリムゾンを筆頭とした反ネルガルグループ。
その反ネルガルグループが主体となって構成された現在の新地球連合。

ペテンにかけられたというか、担がれているというか、なんというか。

つまり新地球連合は、草壁春樹を首魁とした結社、あるいはその組織の起こすであろう何かに対して、
ヒサゴプランを通して国家事業レベルの金銭を知らぬうちに提供しているようなものだった。
 

あるいはヒサゴプラン自体がそのお膳立てなのかもしれないが、そう考えると、時間移動という
ボゾン・ジャンプの本質から意図的に目を逸らさせている表裏の二面性を持ったヒサゴプランにも理解は出来た。

ヒサゴプラン・プロジェクトにおいて現在建造中のメイン・ターミナル・コロニーには例外なくボゾン・ジャンプに
関する研究機関が設置されることになっている。
それは、誰に憚るでもなくボゾン・ジャンプの本質を研究するには最良の場所であり、その技術の一切を漏洩させる
ことなく手中に出来る環境ともいえた。

あらゆる情報が集約され草壁へと結実するこの現状。

知ってか知らずか、それともボゾン・ジャンプがもたらす利権にでも目がくらんだのか、どちらにしろ、
気が付かずに自分で自分の首を絞めている新地球連合。

実に滑稽の一言に尽きた。
 
事実、イネスはアカツキのこの個人的な見解に対して、

『科学がいくら進歩しても、使い手が原始的なままでは意味がないわね』

との、手厳しい意見を後日残したとか。



人間の本質とは利己主義である、というのがアカツキ・ナガレの持論。
だからこそナデシコの、客観的に見ればひどく身勝手で馬鹿げた『自分らしく』が馬に合ったのだろう。

そんなアカツキのような人間にすれば、草壁のような思想主義、理想主義者とは絶対に相容れることはない。
 
事業家や企業家という人種は、常に自分にとっての収益、利益という打算を念頭に置いて思考するものであり、
自分を含めて、間違ってもこの手の人種は革命家や慈善家には向かないとアカツキは理解している。

ならクリムゾンの側としても何らかの打算があって草壁の組織に技術、資金を提供しているのだろう。
では、その見返りは何なのか。
 
私的な利害関係、政治的取引と思いつくことは多々あるが、まだ現状では入手している情報が少なすぎる。
ならば、すべきことは単純明快。

故にアカツキは酷薄の笑みを浮かべる。

 
世間では凋落の一途をたどっているといわれるネルガル・グループ。
だが、グループ企業というものをなめてもらっては困る。

一企業の損失を、他の部署の売り上げでまかなうことが出来るのがグループ企業というものの強みであり、
先にも述べたように、火星古代文明の遺跡からスピンオフした技術の類のアドバンテージは、まだまだネルガルの側の
ほうがはるかに大きいのだ。

そして、爆発的に普及しているコミュニケ市場も、相転移エンジンの制御に関わるシステムも
いまだネルガルの独占市場。

それらを含んだOEMの収益や大小あわせて千を超えるパテントも関係させれば、
今後数年分の収益は戦時中と同等額の収益が見込めていた。

もっとも経済とは常に変動するものであり、だから楽観視することは出来ないし、してはいけないことを
停戦、終戦時以降の手痛い失策からアカツキは学んでいる。
何事にも万全は無いからこそ、フェイル・セーフは多いに越した事はないのだ。
 

 『舞台に上がれば芝居は役者のもの』

誰の言葉だったかは忘れたが、あのナデシコを思い出せば、まさしくその通りだ。

予定は未定と同意であり決して決定ではないそのことを、彼らにも教えてやらねばならない。

支払わせるべき代価は、彼らの血と肉と命。
コケにされて黙っていられるほど、アカツキ・ナガレという男は優しくはないことを見せてやろうじゃないか。
 
思考がそう結実したとき、椅子に腰を掛ける男の頬は、じつに楽しげに歪められた。
 

 


 


 







『必ず、帰ってくるよ』

ルリと約束してくれたその言葉の通りにアキトは帰還した。
ただし負傷し血にまみれた姿で。

その光景を目撃したとき、ルリの胸の奥を何か容赦のない力が突いた。
物理的な痛みすら覚えたほどに。
 
酷く損傷したアーキタイプのコックピットから血まみれの姿で救助されるアキトの姿。
それはあの日、本当にあった出来事。
それはいまでも、時々ルリが夢に見る光景。
 
その夢を見たとき、ルリは決まってアキトの寝室に行く。
それから薄闇の中で彼の存在を確かめる。

あのときのように、アキトが搬送された病院の病室でしたように、彼の頬に手を当ててその温もりを確かめ、
その手の温もりにすがって、そして彼がいま、ここにいるその事実を確認して、ようやくにルリは安堵する。

でも、ときどきその布団の中には、とき色の髪が見えるときがある。
彼に添い寝してもらっているのは、ルリの義妹。

そんなときは腹ただしいから、決まって彼を挟んで義妹の反対側、大抵は右側に潜り込む。
もちろん枕は忘れずに持参するから、問題はない。
恋する少女の行動は、ときに大胆だ。

そしてルリは今夜も、いつものように・・・・・・。
いやいや、夢見が悪かったのでアキトの寝室にお邪魔する。

ありがたい事に、今夜も義妹のとき色の髪が見えた。
明日は義妹のために焼き菓子でも焼いてあげようと思いつつ、一緒の布団にそそくさと潜り込む。
これは不可抗力だと、自分に言い訳することを忘れずに。
 
身体をすり寄せて彼から伝わる暖かな温もりを感じながら、そして彼の寝息を聞きながらルリはまどろみの中で思い出す。
想いを伝えたあの日のことを。

血まみれのアキトの姿を見て取り乱してしまったルリ。
でも不意に、あの人のお馴染みのセリフが耳に蘇る。
その言葉が皮肉にも、いま自分にしか出来ない、そしていま自分のなすべきことを思い出させてくれた。

 『ジュン君、あとお願い』

耳に蘇ったその言葉は、いまも良く聞く変わらないあの人の言葉。

いま搬送されたアキトにすがって付いていけたらどんなにいいだろう。
きっとあの人なら、何に変えてもそうすると思う。

でも彼に付いていっても、自分には何も出来ないのだ。
でもここには自分のすべきことが、そして出来ることがあった。

 『それが出来るの、いま、俺だけだからね』

 
あのとき彼の、アキトの言った言葉を思い出し、本当にその通りだとルリは思う。
ならこの場所に留まって、その出来ることを済ましてから彼の後を追えばいい。
それからだって、きっと遅くはないから。

彼に向けるこの想いをかみしめ、そしてあらためて気が付かされる。
この想いは本物だと。

それと、あの人にも感謝したくなった。
そちらは反面教師としてだけど。

彼の持ち帰った”scv2027”の端末に機材を物理的接続してもらい、ルリは即座に作業を開始した。
いろんな意味で時間との勝負だ。

従来型の機械式入力、つまりキーボードを使用しての場合なら確実に数日はかかる作業量。
でもルリはIFSオペレータの本領を発揮して、ものの5分とかからずに過去9ヶ月分にさかのぼる蓄積データを
用意された機材に移してみせた。

まだ数少ないIFSオペレータの実力をまざまざと見せ付けて、自分のするべき事をこなしてから、
イネスを急かしてアキトが搬送された病院へと急いだ。

ランプの消えない手術室の前で、どれ程に待ったのかルリは覚えていない。

その間にイネスがミスマル家に連絡を入れてくれて、差し障りの無い事情を創り、伝えてくれていたのを
ルリが知ったのは、結構後のこと。

そういったことをすっかりと失念してしまっていたルリだった。
 

やがて手術室のランプが消える。
処置の経過は良好で病室に移されるアキトの後を、今度は付いていった。
 
病室のベッドに眠る痛々しい姿。
そのアキトの頬に、そっと手で触れる。
その手のひらに伝わるのは暖かな温もり。
それは生きている証。
そのことが、何よりも嬉しい。

知らぬ間にアキトの手を握りしめたまま、伏せて眠ってしまっていたルリ。
髪を梳かれる心地よい感触に目覚めたとき、寝ぼけ眼に映ったのは彼。

髪を梳いていたのは、先に目覚めていたアキトだった。

自分に向けてくれる、あの優しい笑顔。
自分の名を呼んでくるれたその声を聞いたとき、彼の名を呼ぶルリの声は震え、こらえ切れずに涙が溢れ出す。

そして抑えきれない感情に急き立てられる様に、自分の感情と想いを言葉に託して
アキトへと告げてしまっていた。
 
それはルリからアキトへの、告白。

想いを伝えてしまったあの日からもう二ヶ月が経ったけど、その返事をアキトからは、まだもらっていない。
でも、そのことにどこかホッとしている自分がいることも、ルリは自覚している。
恋する少女はいつだって臆病なのだ。

それから色々なことがあった。
それこそ語り尽くせぬくらいに。

自分の苗字もフレサンジュに変わったし、自分のような子たちが他にいる事も知った。

情緒面を考慮されて一般家庭で育てられている少年のことは公認されてのことだけど、非公認の
開発コード:ラピス・ラズリの名を持つ十数人の少女たちのことは初めて明るみに出たらしい。

とりわけ開発コード:ラピス・ラズリの名を持つ十数人の少女たちの存在が露呈したのは。ネルガルの会長が
なにやら悪巧みに備えてグループ内全域の極秘内部調査を徹底した結果だとか。

その子たちとは血縁関係も遺伝的な関係もないけれど、間違いなく自分の妹たちであり弟のようなものだ。
なにしろルリの施された教育プログラムをベースに、自分と同じような成長過程での環境整備の施された状況下で
専門的な英才教育を受け育成されている子供たちなのだから。

義母が引き取ったとき色の髪の義妹も、そんなかつてはコード:ラピス・ラズリだった一人。
それに同じような金瞳だからだろうか、親近感も覚える。

でもちょっと叱ると、すぐアキトの後ろに隠れるのは、別に意味で腹が立つ。
そういうときは決まってアキトが義妹をかばうから。

もちろんほかの妹たちコード:ラピス・ラズリも、いまは弟同様に一般家庭で養育されていた。


それからユリカとの関係も、変わった。
変わらざるをえなかった。

何日かぶりにミスマル邸に帰宅したとき、ルリはけじめをつけるようにユリカにも告げた。
自分のアキトへの気持ちを。

結果的に見れば、左手の手袋を脱いで相手の胸元に投げつける行為となってしまったのは、
まあ、あのユリカが相手だから。

いかにルリでもプチっといったそうだ。
だからユリカには三行半を突きつけるようなカタチになってしまった。

それからはイネスとルリで良く話し合ってルリの被保護者にはイネスがなり、その後アキトが一応の退院を
する頃に、ルリはイネスの正式な養女となった。
その際、戸籍名も当然改められた。
 
ルリ・フレサンジュ。
それがいまのルリの本名だ。

そのことでユリカの父であるミスマル・コウイチロウからは、イネスとルリに誠意を伴った謝罪があったらしい。
そのほかにも細々としたことも含めて、ま、色々とあった。

 
 
 
退院したその足で、アキトもまたユリカに会いに行った。
 
なにも悩むことなんてなかった。
いつだって人が自分の考えを、自分の気持ちを他人に伝える最初の手段は言葉。
なら、答えはとっくに出ていた。

ユリカを含めて、昔の仲間はアキトの身に何が起こったのかを知らないし、知らせてはいない。
知らせる気もないけど。

いまそれを知っているのは、ルリとイネスとネルガル側のクルーだったナデシコの関係者だけ。

ユリカに何を聞かれても、アキトがまだ足を引きずるほどの怪我をした理由も、屋台を畳んだ理由も、
アパートを引き払った理由も、その経緯に到る全てを何も説明する事は出来なかった。

当たり前だ。
いかなる理由があろうとも、例え表ざたにはならなくてもアキトのした行為は犯罪行為でしかないのだから。
 
いつかは自分たちの『自分らしく』が招いたその結果をユリカや昔の仲間たちも知るべきだと思う。
だけど、いまはまだ駄目だ。

それに、ここに来た理由はそれとは別のこと。
今のユリカに対する気持ちを言葉にして伝えるためだ。
その難関に立ち向かうために、ただそのためだけに、いまアキトはこの場所にいる。


この乖離は当然の結末だったとは思わない。
ユリカとの会合を終えて戻ってきたアキトはルリにそう言った。

でも知ってしまった今となっては、もう、昔の生活に戻れるとは思ってはいない。
そうもアキトは言った。

そう言って、疲れきった表情を浮かべていたアキトの姿がルリの記憶に焼きついている。
いまならルリにも察することができる。
またプチっといったのだ。
自分と同じように。

その日を境に、アキトたちは昔の仲間に一度も会うこと、事情を説明することなく姿を消した。
それが新地球連合が発足する一ヶ月前ぐらいのこと。

可愛らしいあくびが漏れて、瞼が重くなる。
うとうととし始めてきたルリは、いつものようにアキトの手を握ってから、瞼を閉じる。
そうしていれば嫌な夢を見ないから。
そしてすぐに安らいだ寝息をたて始めた。
 



目覚めたとき最初に目に飛び込んできたのは、銀糸の髪。
こっちは寝る前の記憶にはない

首を反対に振ると、そちらにはとき色の髪。
こっちは記憶にある。
枕持ってきてもぐりこんで来たし。
 
でもそういう状況下で目覚めても、最近はアキトも焦りはしなくなった。
・・・・・・もう、いつものことだし。

二人に布団をかけ直してから、自分の手を握って眠るルリの寝姿に目をやる。
その安らいだ寝顔に、いつものことだけどアキトは微笑を隠し切れない。

甘えることが下手な少女が自分に甘えてくれる。
本当の、歳相応の素顔を覗かせてくれる。
それはアキトにとって、ちょっとした誇りだ。

そして手を伸ばして、あのときのように銀糸の髪を梳く。
それはアキトにとってルリという少女の存在が、自分に中でどれほど大きくなっていたのかを確かめる儀式。
 
ひどく穏やかに、ゆっくりと時が流れるままにすごす日々。
そんな日常の中で、ここでの暮らしが始まってから、その想いが確実に大きくなっていくのをアキトは自分でも
自覚していた。

いや、ようやくに気付かされただけなのかもしれない。

『必ず、帰ってくるよ』

あのとき交わした約束の言葉が、絶望的な条件下で心が手折れそうなときも、知らず知らずにアキトを
支えてくれていた。

二ヶ月のあの日、伝えてくれた言葉を忘れたことはない。
あの戦いのことも含めて、自分の中での色々な整理はついた。

銀糸の髪を梳きながら、アキトは思う。
長く待たせてしまったあの言葉への返事を、まだ許されるなら言葉にして伝えたい、と。
ずいぶんと遅くなってしまったけれど、言葉にして伝えたいと、そう願う。
 
あの日ルリが、そうして伝えてくれたように。
 





 

 

草花が芽吹き始めた、いまはそんな季節。

外で遊び疲れてお腹をすかせた義妹には、おやつに焼き菓子を焼いてあげた。
義妹は何も知らずに喜んだけど、それは昨日の報酬。
出来れば今夜もよろしくと、口には出さずに催促してみる。

分量をグラム単位で計測する必要のあるお菓子作りとは、ルリは相性は良い。
が、逆に手本がない創作料理の類をルリは苦手としている。
 
そういうことは実際に手を動かして、経験して判るものなのだと、ルリは知った。
 
そんなわけで、使い勝手良く配置されたキッチンに立って、ルリはいつものようにちょっと早めに
夕食の準備に取り掛かる。

病み上がりのアキトにそんなことはさせられないから、家事はルリの仕事だ。
誰に言われたからではなく、それは自分から望んでのこと。

ちなみにちょっと早めに夕食の準備に取り掛かるのは、リカバリーの時間も余分に見積もっておいた方が
失敗したときに慌てないから。

すべては経験則から導き出された答えだ。

 
しばらくは義母も一緒に住んでいたが、いまは研究生活に戻っていて、金色の光を伴って、ボゾン・ジャンプで
週末にだけ戻ってくる。

昔は家事を教えてくれたけど、最近は英気を養うのだと言って、日がな一日陽だまりでごろんごろんとしていたり、
義妹と遊んだり、アキトをからかったりしている。

そのせいか最近では、ルリが義妹に対して接するときは自然と義姉というよりも母親のように接することが多く
なってしまっていた。

そのことを義母に向かって口にしたとき、ルリは義母にこう言い返された。

「いいじゃない将来の予行練習と思えば。お義母さん寛大だから婚前交渉だって公認しちゃうわよ。
あ、でも、もちろんは責任はとってもらいなさい」

と、これが義母の弁。
 
何となく『将来の予行練習』とか『婚前交渉』に過剰反応してしまいつつも、冷静を装ってまだ返事はもらってませんと、
ごにょごにょ言い訳して逃げるルリ。
それでも頬が赤らむのが隠し切れない。

それ以来、藪を突ついて何とやらは嫌なので、ごろんごろんを黙認している。
それにいま、研究が忙しいのは判っているし。

手馴れた様子でとはいかないその調理の合い間に、何度かエプロンのポケットからメモ帳を取り出しては、
ルリはぺらぺらとページをめくり視線を落とす。

本格的に家事を始めてから、ほぼ一ヶ月ぐらい。
だから、まだまだルリはこのメモ帳が手放せない。

メモ帳に書かれた内容は義母から教わったレシピやら、同居しているアキトから教えてもらった初心者向けの
レシピなどなど。

この生活を始めてから、いろんな教わったことや覚えたことをメモ帳に肉筆で記入する癖が付いた。
いま使っているのは、もう二冊目のメモ帳。

ずいぶんとアナログだと思うけれど、案外効率的なのでルリは気に入っているし、書き込まれた文章も読み直すたび、
そのときの情景が思い浮かんで、なかなかに楽しい。
昔の自分が、いまの自分を見たらどう思うだろうと、最近では、ときどきそんなことも考える。
 

もちろん平日の午前中と午後の料理番組のチェックだって欠かさないし、家事の合い間にはワイドショーの中にある
料理コーナーにだって目を通している。

おかげで最近、ルリは芸能人のゴシップにも詳しくなった。
ルリも知っている、某元通信士の女性が年齢を偽ってアイドルをしていたのを知ったときには驚いたけど。

ちなみに、その某元通信士の女性のゴシップ内容は『熱愛発覚!!お相手はまたもやコック!・・・か?』だった。
 
 
煮崩れないようにと、きちんと硬水を使ってコトコトと煮込まれるプーレ・オ・ポ、つまり鶏肉のポトフの良い香りが
キッチンから漂い出した頃には、夕食に丁度良い時間。
 
ウインドウに映るアニメにかじり付いている義妹に一声かけてから、アキトを呼びに外へ出る。
つまみ食いしないようにと、警告するのも忘れずに。

ルリに似て、ちっこいのに結構健啖家なのだ義妹は。
変なところで似ている義姉妹だった。










この地に住まいを移した理由の一つが、入院していたアキトの退院後の療養を兼ねてのこと。

河畔近くの、静かで風光明媚な別荘地。
そこがいま、ルリやアキトたちが住む場所。

この地域一帯はネルガル・グループ系の不動産会社が所有し管理しているが、いま住んでいるのはアキトたちだけ。
あの出来事以来、望まずとも重要警護対象人物となったので警護上の問題もあって移り住んだのも理由一つ。

偽装され、あちらこちらのブッシュに潜むのは対人、対物装備仕様の警護用バッタ。

これは木連純正の輸出品ではなくネルガル製のOEM生産のバッタで、アキトたちの護衛として、
この別荘地全域の敷地内のそこらかしこに多数が潜んでいる。

もちろん警護にはネルガル会長室警備部の警備部第3課からも人員が割かれているが、この広大な別荘地全域を
カバーしているのは、実質この警護用バッタたちだ。

長らくバッタにトラウマを持っていたアキトなどは、それを知ったとき露骨に嫌そうな表情を浮かべた。
ちなみに配置指示を出したのは、根性悪なネルガルの会長。

さて、この警護用バッタの大きさは、統合軍が演習の際に仮想敵機として使用するような3メートル程の
標準サイズではなく、1メートル程度の木連市民には馴染みの深い、そして生活に溶け込んでいたサイズのもの。

想像がつかなければ、サツキミドリ2号でエステバリスに寄生していたものや、あるいは白鳥ユキナがナデシコに
持ち込んだ際に、背中に小さなチューリップを括り付けてボゾン通信機の端末として機能していたあのサイズを
思い浮かべればいい。

ルリが蹴っとばしていた、アレだ。

以外かもしれないが、木連の主兵力だった無人兵器は、戦後その性能の高さが地球側から高く評価されている。

そのため大戦後も、探査や危険地域での作業などで有効に活用され活躍の場は多く、さしたる資源のない木連に
とっては、モジュールの組み合わせで戦艦にも駆逐艦にも転用できるコストパフォーマンスの高い木連式艦艇と並んで
重要な輸出品目となっていた。

その中にあってネルガル製OEM生産品は、木連純正の輸出品とは違ってニーズに合わせて細かい仕様変更が可能な事と、
様々なオプションを装備できる機能が追加されているため、結構評判は上々だった。

もちろんネルガル製OEM生産品のバッタには、従来通りの戦闘用のものも取り揃えられている。
が、いま主だった生産品は建築、建造用の工作用バッタとなっていた。

大口の公共事業であるヒサゴプラン建造権にはあぶれてしまってはいたが、まだまだ戦後だからか、
その手の工事には事欠かないらしい。

搭載A.Iによって自立判断行動も可能なのが従来のバッタだが、数機での運用の際には搭載A.I同士で
情報交換を行い並列処理を行う特性を付加させているのがネルガル製OEM生産品の特徴の一つ。

これは”scv2027”の運用データを元に構築されたアーキテクチャーを使用しているためであり、
木連製との瞬間的な情報処理量を比較する単純なベンチテストでも確実に効率性の差別化を図れていることが
見て取れた。

つまりハードウェアこそ共通規格のバッタではあるが、中身のソフトウェアのみを比較すれば、
ネルガルのノウハウをふんだんに盛り込んでの、純ネルガル製のバッタだとも言えるだろう。

そのため外見こそ、現在市販されている共通のものを基本とはしても木連製とネルガル製とでは、
その実、中身はまったくの別物と言っても差し支えがなかった。

この辺りが、火星古代文明の遺跡からスピンオフした技術の類のアドバンテージは、まだまだネルガルの側の
ほうがはるかに大きい事を証明するという良い事実だろう。

 
もちろんネルガル製OEMのバッタの普及の理由はそれだけではない。
リース価格が破格的に安価なことも重要な要素のひとつだ。

これはコスト以上に、あらゆる条件下で活動し運用されているネルガル製OEM生産品のバッタに蓄積される
桁違いの情報の回収をアカツキが重要視したためでもある。

リースされた各機、それらのこなした各作業自体がトライアルテストを兼ねているようなものであり、
そのデータを回収することで同等のテストを消化する時間を短縮ことができたし、なによりも研究者や
技術者では想像もできないような独創的な使用法を生み出すことがあるのが消費者というものだ。

どのような意図を持ってこれらのデータ群が蓄積され続けているのかは不明。
少なくとも、いまは。


 

 

 

 



目の前に見える湖畔の遊歩道を、一日に何度か散歩することが、いまのアキトにはリハビリを兼ねた日々の日課。
だから迷うことなく、ルリはすぐ近くの遊歩道に足を向ける。
 
湖畔に面した斜面の草地に腰掛ける彼の姿を見つけ、ルリは駆け出す。
弾む呼吸を抑えながら、ルリはアキトに声をかけた。

 


 そして・・・・・・。




乞われるままにルリはごく自然な動作で、けれど当たり前のようにアキトの横に腰掛ける。
黄昏の残光の中、心地よい沈黙に包まれて自然に寄り添い合う二人。

山の稜線へと落ちていく落日が、湖面を照り返す茜色の光が、ただ世界を一色に染める。
それはまるで、一枚の絵画のように完成された光景。

夕映えが二人の影を、重なり合いそうで重ならないその影を長く伸ばす。
それがどこか、いまの二人の関係を如実に表してもいた。

けれど、その拮抗は、いまくずれる。

アキトからルリへと語られる言葉、それはあの日伝えてくれた気持ちへの返答。
遅くなってしまったけれど、いまその答えをルリへと伝える。
想いを言葉に託して。

想いを伝えたあの日から、ずっと待ち続けていた答えを不意に受け取って、金瞳が見開かれる。
その言葉の意味をかみしめるうちに、涙があふれそうになる。

ずるい、そうルリは思う。

こんなにも美しい夕暮れの中で、そんなにも優しい言葉と優しい微笑を向けられたら、
もう何も言えなくなってしまう。

黄昏色の残照が終わり、そして世界のすべてが夕闇の中に溶け込んでいく。

その刹那、そっと伸ばされたアキトの手がルリの手を握り締めた。

拒めない、拒むことなんて出来るはずがない。
だからおずおずと、けれどしっかりと、ルリもまたアキトの手を握り返す。

いとおしい温もりにすがり合う様に二人の指が絡まり合う。

 
やがて昇り始めた白い月。

世界は再び光に満ちる。

でもそれは柔らかな月の光。

優しくも幻想的な蒼い明かりに照らされて出来たもの、それは二人の新しい影。

そっと、アキトはルリの華奢な身体を抱き寄せた。
ルリもまた抗うことなく、思うままに望むままに身をゆだねる。

ようやくに。

でもそれが、当然であるかのように。
 
影と影が重なり合った。



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b83yrの感想

う〜ん、ごく普通の生活の中で、段々とユリカへの気持ちが冷めていくアキトって本当にありそうな・・・というか、ユリカとアキトの性格を考えると、こっちの方が自然な気さえします

アキトの性格だと、ユリカのかける迷惑がアキト相手に限定されている間なら、まだ、ギリギリで許容範囲かな?、って気もするんですが

アキトを追い掛け回す事で、周りの人達にまで迷惑をかけてる場合は、いたたまれない気持ちになって許容範囲を超えそうな気も

『可愛さ余って憎さ百倍』って諺もありますしねえ

アンチユリカとかユリカヘイトって言われるSSって、ユリカのキャラというより、『ユリカのようなタイプの女性に対する周りの人間の態度』に違和感が少ないんですよ、それが私がSSを書くときにも、ユリカの扱いに悩む所で

ユリカみたいなタイプって一度思いっきり振られた方が良いと思ってます

そういう経験があれば、それをきっかけに成長するユリカの話にも、多少は違和感を少なくする事も出来るんですが

ユリカとアキトの関係に限らず、ナデシコって作品自体、『様々な問題を乗り越えた』というよりも、『誤魔化した』って印象が強い人多いみたいですからねえ

ナデシコがギャグだけの作品なら、それでも良かったのかもしれませんが、ナデシコはギャグ半分シリアス半分の、『微妙』な作品ですし

『誤魔化しのツケ』が劇場版の悲劇や、ヒロイン交代、アンチユリカの多さに繋がっちゃってるんでしょうな

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